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エッセイ・コラム

長いながーいお付き合い

西川 武彦

 三十年来お付き合いしている歯医者さんがいる。
 Sさんは、当時から極めて評判が良く、噂を聴いて遠方から電車で通う患者さんも多かった。治療が的確で、早く、痛くない、無駄口がなくさっぱりした人柄、エトセトラ。
 乗員の健康管理のため、ちょっとした病院並みの医療施設を備えた航空会社で働いていたから、現役時代は、歯石をとるといった簡単な治療は会社で済ませたが、それ以外はS先生にお願いしていた。亡母も贔屓にしていたし、連れ合いも妹夫妻もお世話になっている。

 古希のときに通ったのが最後で、それ以降は喜寿を目前にする今まで歯の治療を必要としなかったが、一週間前、左の奥歯二本の間に詰まったものが採れず、じくっと浸みるのが堪らなくなって、久し振りにS先生に診て貰った。こちらも地肌が目立つ頭に変貌したが、先生もめっきり白く薄くなっていた。60代に入ったのだろう。ほんの少しの患者さんしかとらないようで、完全予約制。患者さんが待合室で待たされることはない。一日に何人も診療しないのだろう。
 今回は、奥歯の間の虫食いを治し、古くなった被せ物を外して新しいとの付け替える治療で、三回の通院で終り。
 昔通ったときにいた若い看護婦さんも替わっていた。痛い素振りを見せると太ももを患者さんにぴたりと寄せて、痛みを緩和してくれたものだが……。目がパッチリした色白の新しい看護婦にはそのサービスはなかったものの、体力・気力が衰えた患者さんが、口を大きく開けてのチクッとする治療に耐えがたく、涙を浮かべたり涎を垂らしたりすると、手ぬぐいをそっと優しく差しむけてくれた。
 歯型を取るため、柔らかく大きなガム状のものを歯に被せるときは、そういうのに弱い老患者がゲエっと吐きそうにすると、今度は素早くS先生が身体を起して楽にしてくれる。細かく気がつくのだ。

 S先生の趣味は室内楽らしく、医院には、いつも筆者の好みの音が静かに流れている。四囲が明るいグレイで、無駄がなくセンスがよい。個室然の治療室には、女性をモデルにしたシャガールのリトグラフが正面に掛かっている。飛行機のファーストクラスの趣きさえあるから嬉しい。
 さて、S歯科医院に次回来るときは幾つだろうか?傘寿か、はたまた米寿?先生は車椅子で治療?看護婦さんは可愛いロボットさんに替わっていて、患者のお好みでサービスが選べる??Only God knows!

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