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エッセイ・コラム

バストーニュ、「馬鹿たれ広場」のある町

志村 良知

 バストーニュはベルギー東部、ルクセンブルク国境に近い何の変哲もない田舎町である。生ハムが名産であるが世界的名品というわけでもない。周辺は緩い起伏が続き、森の間に畑と牧場が広がっている。しかし、そこを走る道路は吸い寄せられるように全てバストーニュに集まっており、地図で見るとパリの凱旋門のエトワールのようである。
 1944年12月、例年にない厳冬の雪の中、バストーニュはこの道路網ゆえに戦史に残ることになり、現在に至るまでの観光資源を得ることになる。
 12月16日、押し込まれた元の国境の位置から再びルクセンブルク、ベルギーを突破し、連合軍の新しい兵站港であるアントワープを奪取する、という壮大なドイツ最後の反撃「ラインの守り作戦」が開始された。連合軍の呼び名で「バルジ戦」として知られる戦いの始まりである。急を聞いたアイゼンハワーは連合軍総司令部直属の虎の子、第82と第101の二つの空挺師団を飛行機ならぬトラックに乗せて戦線に送り込んだ。ドイツ軍の進撃は1940年夏の電撃戦の時と違って、寒さと雪、それに前面に布陣した米軍の根強い抵抗に遭い遅滞した。その遅滞に乗じて12月19日、380輌のトラックに乗った第101空挺師団の一万人余りが交通の要衝であるバストーニュに入るのに成功する。直後、バストーニュはドイツ軍前線に飲み込まれ、360度の完全包囲下となった。
 雪と泥濘で戦車はともかくトラックは道路以外走れない。バストーニュは、前進するドイツ機甲部隊の兵站線上に一万人以上が入った巨大な円形陣地となって残った。
 悪天候で飛行機による補給や、支援の対地攻撃もままならない中、専ら攻撃を任とする空挺隊員たちは不慣れな長期防御戦闘にも奮戦した。手を焼いたドイツ軍指揮官は完全包囲下にある事を理由に降伏勧告の軍使を送る。これに対して防御軍の指揮官マッコーリフ准将は、軍使に「NUTS」と一言書いた回答文書を手渡した。指揮官が降伏勧告に対して「NUTS=馬鹿たれ、失せろ」と、痛烈なフォー・レターで拒否回答をした事はすぐ全軍に知らされ、士気大いに上がったという。
 包囲7日目クリスマスの翌日、パットン将軍の第3軍に属する第4機甲師団が南からバストーニュ突入に成功する。先頭でバストーニュ包囲網を破った戦車部隊の指揮官、エイブラムス中佐は、現在のアメリカの主力戦車、M-1エイブラムスにその名を残している。

 町の真ん中の広場は、「マッコーリフ広場」が正式名称であるが、「NUTS(馬鹿たれ)広場」の方が通りが良い。この広場の片隅にはマッコーリフ准将の胸像と共に第4機甲師団のM-4戦車が置かれている。しかしこの戦車、左側面に撤甲弾による大穴が開いており、砲塔後部にも貫通孔がある。勝ち戦のモニュメントが穴だらけの戦車、という事の理由の説明はどこにも無い。郊外には巨大な戦争博物館、バストーニュ・ヒストリカル・センターがあり、バルジ戦とバストーニュの戦闘に関する膨大で詳細な展示があるほか、研究・出版もしており、世界中の観光客や戦史研究者を集めている。

 1995年ころ、「NUTS広場」に面した小さなホテルに泊まった。ロビーはバストーニュ防御戦闘の写真と資料で埋まっており、さながら博物館で、このホテルの客層の性癖を物語っているようであった。主夫妻は英語を話したが、ホテル内はフランス語で、朝食もジュースにコーヒーとミルク、パンにバタージャム用のナイフだけでフォークが無いフランス式であった。

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