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エッセイ・コラム

わが家の戦災体験記

濱田 優(ゆたか)

 再開発される赤プリこと元赤坂プリンスホテルの解体工事が進んでいる。
 そのなかで唯一旧館(旧李王家東京邸)は、同じ敷地内に移動して再活用されることになり、このほど曳家工事が行われた。
 この邸宅が、東京都有形文化財指定の歴史的に貴重な建物ゆえに保存されるのだろうが、ぼくはこの朗報に接してわがことのように喜び安堵した。
 東京空襲のとき、ここで家族の命を救われた特別の思い出があるからだ。

 昭和二十年五月二十五日夜、500機のB29が来襲した山の手空襲で赤坂一帯は焼き尽くされ、赤坂田町にあったわが家も丸焼けになった。
 当時、小学二年のぼくは父母と姉二人と一緒に5人で暮らしていたが、その夜警戒警報がなると、ぼくだけ丹後町の親しくしている小母さんに預けられた。そこは歩いて15分ほどの坂の途中の家で、強制疎開で周囲の家が間引かれて比較的安全と考えられていた所だ。
 しかし、この夜の空襲は想像をはるかに超えるもので、ぼくが避難した所にも延焼がおよび、急遽小母さんと二人で逃げ出すことになった。主要な道路は人が多いうえリヤカーや大八車で荷物を運んでいる人もいて動きが取れない。人通りの少ない道を選んで炎の中を逃げまわった。途中、熱さより異常な喉の渇きに耐えられなくなり、そばにいた人のバケツの水を飲ませてもらったことを憶えている。

 そのとき偶然に、近くの連隊の兵士が隊を組んで黙々と避難するところに出合わせた。行先を聞いても返事はなかったけれど、小母さんの頭に閃くものがあり、その隊列の後に付いて行くことにした。兵隊の足は速く、ともすれば見失いそうになる。ぼくは小母さんに手を引かれながら必死に走った。
 彼らの逃避先は紀伊國坂の都電のトンネルだった。確かにそこは延焼の恐れもなく安全な避難場所である。軍隊はそれを知っていたのだ。ぼくたちもそこに入れてもらい何とか助かった。
 無我夢中で逃げているときは心細いと思う間もなかったけれど、安全地帯に駆け込んだ途端、家族のことが心配になる。みんな無事に逃げおおせただろうか。

 田町の家に残った父母と二人の姉は、B29の大編隊から焼夷弾が雨霰と落とされる中、警防団の指示に従い、最後までバケツリレーなどの消化活動を続けて完全に逃げ遅れてしまった。3月10日の東京大空襲の経験から「逃げるが勝ち」と密かに伝わっていたのに、非国民呼ばわりされたくないと思い、警防団から退避命令がでるまで頑張ったという。
 防空頭巾を水に浸して被り直しいざ逃げようとしたときは、四方八方火の壁に囲まれて逃げ場が見当たらなかった。周りにはもう人はいなく、どの方角に逃げたらいいか分からない。ゴーという音とともに火炎が渦巻き、舞い上がった火の粉が降り下りくる。進退窮まって立ちすくんだとき、弁慶橋の先に辛うじて色の黒っぽい部分があるのに気づいた。
 家族は火の海の中をそこに向かって全力でダッシュした。心臓に持病を持ち普段は走ることのない母も、このときは何かに憑かれたように走りぬいた。着いた所は李王邸の樹木の多い庭園だった。だが塀が巡らされていて中には入れない。塀の外にいてはそのうち火流が回ってくるだろう。
 そのとき通用門が開き、門前に屯していた人々を庭の中に入れてくれた。父母と姉たちは、その庭の一角でその夜をすごし、朝を迎えることできて助かった。

 逃げ遅れてピンチに陥ったのに、それが幸いして焼かれずに残された李王邸を見つけられたと思うと、まさに、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」で感慨深い。李王邸が難を逃れたのは、そこの主が朝鮮の皇太子だったからなのだろう。
 因みに青山通りを挟んで李王邸の向かいの閑院宮邸は、徹底的に焼かれた。閑院宮は皇族で長年陸軍の要職を務めていたことが災いしたと思われる。
 そのとき米軍は攻撃のターゲットを精確に仕分けていたそうだ。
 この空襲で亡くなった人は数千人、早く逃げた人の中にも焼け死んだ人は多数いる。ぼくは地下鉄赤坂見附駅の前で焼死体を何体も見てショックを受けた。

 翌日、全焼したわが家の跡地で小母さんとぼくは父に会えた。そして、別別に逃げたぼくのことを狂わんばかりに心配していた母と李王邸の庭で涙の再会を果たす。家族5人、命からがらの逃避行の末、全員無事で再会できた幸せに心から感謝している。ぼくにとって丹後町の小母さんは命の恩人だ。
 ところで、あの門は誰の指示で開かれたのか。本当のところは分からないけれど、皇室を敬愛してやまない母は心優しい久子(まさこ)妃に違いないと信じていた。

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