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エッセイ・コラム

二つの地碑

濱田 優(ゆたか)

 JR田町駅の近くの国道沿いに「西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑がある。
 三十数年前、会社がその近所に移転してほどなく円形のそれを見つけた。
「慶応4年3月14日 此地薩摩邸に於いて西郷勝両雄会見し、江戸開城の円満解決を図り、百万の民を戦火より救いたるは其の功誠に大なり。平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す。昭和29年4月3日 本芝町会」
 裏面に、幕末の歴史的な会談の意義をこう謳う刻字がある。
 世界に類を見ないと称される江戸城無血開城の談合が、ここで行われたと思うと感慨深かった。
 私は、鹿児島出身の父から西郷さんの話はよく聞いていたし、勝海舟が住んでいた赤坂氷川町にあった中学校に通ったことから、彼ら幕末の巨人に勝手に親近感を感じていたのである。

 昨年、勤めを終えた大学時代の級友が郷里の静岡市に戻った。改めて郷土を見て回り、見過ごしていた多くの見所を再発見したそうだ。案内するから泊りがけで来ないか、という彼の声掛けに応じて、この4月にクラス仲間4人で静岡を訪ねた。
 大学に入ってすぐの夏や秋の休みに、地方出の級友の実家を訪ね歩いた大昔の楽しい旅が想い出されて懐かしい。
 彼が周到に考えてくれたプランにしたがい、駿府城を中心にとする静岡市街と周辺の日本平、美保、丸子、宇津ノ谷などの観光ポイントを車で案内をしてもらう。静岡には仕事で来たことがあっても、いつもとんぼ返りで名所旧跡に寄ることはなかった。実際に来てみると、各所に自分なりの新しい発見があり、説明板の端折った説明の先に想いがふくらむことが多かった。

 なかでも帰り際に立ち寄った、JR静岡駅にほど近い繁華街の一角に佇む幕末の史跡は、私に特別な感興をもたらした。冒頭に述べた西郷・勝会見に先立つ重要な会談がここで行われたことを伝える地碑だ。
「西郷隆盛・山岡鉄舟 会見の地」の石碑の脇に、次の説明板がある。
「慶応4年(1868)江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者、勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が同年3月9日にここ静岡市伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しなど合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城無血開城が実現した。明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられるものである。平成16年9月  静岡市教育委員会」
 その近くで、「江戸での西郷と勝の会見が、後に大きく取り上げられるが、実質的な交渉は静岡会見での山岡に負う所が大きく、江戸での会見は単にセレモニーとも思える」とまで言い切っている案内板も見掛けた。
 巨頭会談で重要な決定をする前に、事前のお膳立ては必要だろう。一読、この会見の意義は理解できた。が、なぜ一介の旗本に過ぎない山岡鉄舟が徳川の名代としてここでの会見に臨み、至難の任務を果たすことができたのか、私が一番知りたいことが書かれていない。同行の仲間に聞いてみたけれど判然としなかった。

 それで遅ればせながらにわか勉強をはじめた。幸い5月に、山岡鉄舟を題材にした直木賞作家山本謙一の大作『命もいらず名もいらず』が文庫本化されて発売された、と仲間が知らせてくれた。この本はかなり史実に忠実なようで鉄舟の生涯と人となりを理解するのに役立つ。
 調べてみると、説明板の記述には一部正確さを欠くところもあるようだ。朝敵とされた徳川の交渉役が決まるまでにはかなりの経緯があり、いわば窮余の一策で山岡鉄舟にお鉢が回ってきたことが、まずわかった。
 慶応4年2月12日に江戸城を出て上野の東叡山寛永寺に籠って謹慎した慶喜は、朝廷に恭順の意を伝えようと、和宮や篤姫の女官その他の使者を送ったがいずれも功を奏さず、着々と東征軍の進撃が続くなか、虚しく時が過ぎた。
 焦った慶喜は勝を京に向かわせようしたけれど、幕府の全権を委任されている勝が江戸を空けるわけにはいかない。勝は代わりに誠実で剛毅な人格者として評価の高い高橋泥舟に白羽の矢を立てた。しかし泥舟はそのとき慶喜の身辺警護頭をしており、不穏な情勢の最中慶喜の傍を離れられない。そこで泥舟が信頼し敬愛している義弟の鉄舟を慶喜に推挙して、鉄舟が大役を仰せつかったのだ。
 そのとき勝は、鉄舟を剣の達人と認識していたものの、交渉力には疑問を持っていたようだ。それでも、策を弄せず至誠を尽して訴えるのみ、と迷いなくいう鉄舟の気魄に期待して、匿っていた薩摩人の益満休之助を供に付けてくれる。

 鉄舟は勝の書信を預かり、3月5日の夜中に益満とともに出立した。すでに官軍は江戸のすぐ近くに迫り、道中は数多の敵兵が気勢を上げている。その厳重な警備の中を命懸けで突破しながら駿府に急いだ。「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と叫びつつ官軍の陣中を突破したというから凄まじい。

 途中難航したところもあったが、藤屋の七郎平や清水次郎長に助けられ、なんとか駿府にたどり着き、西郷隆盛に会って来意を伝えた。ところが、
「遅すぎた。三日前、大総督宮より3月15日を期して江戸総攻撃の命令が下った」
 といきなり西郷に告げられた。それでも鉄舟は粘り強く慶喜の恭順謹慎の誠を伝え、江戸総攻撃中止を必死に懇願した。西郷は、徳川方の行動に不信を持っていて厳しい詰問もあったが、最後に慶喜の恭順に偽りがないか再度確認すると、大総督宮に諮って総攻撃中止の条件を示した。さらに話を詰めて、慶喜の処遇問題は預かりになったものの、ほぼ説明板に記されたとおりの合意に達した。
 このとき、山が動きはじめたのである。鉄舟の、私心を持たずにただ一筋に突き進む姿が西郷を動かしたのだろう。西郷は鉄舟のことを「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」(『西郷南洲遺訓』より)と称賛し、その生き方を自分の鑑にした。
 とはいえ、西郷は現実を凝視する優れた政治家でもある。鉄舟との盟約が実効をあげるには、徳川方の権力者たる勝たちとの確約が欠かせないと読み、鉄舟の後を追って江戸に向かう。3月13日、14日の二日間江戸で勝たちと会見をして、15日の期限ぎりぎりに総攻撃中止の命令を出し、江戸城無血開城が成った。

 終わりに、駿府会見も江戸会見も共に重要なことに違いないが、江戸での勝の活躍が喧伝されている割には、鉄舟が敵中を駿府に馳せて果たした功績は知られることが少ない。静岡の人が江戸会見はセレモニーといいたくなる心情も現地に行くとわかるような気がする。史跡巡りの面白さの一端はこんなところにもある。
 また、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟は「幕末の三舟」と呼ばれる。はじめに静岡で聞いたときは何か不揃いな感じがした。が、三人ともたいへんな能書家で多くの書を残している。先に書家の間で幕末の三舟と称したのが、幕末志士の三舟として通るようになった、と聞いた。
 書家でも志士でも、ビッグネームの勝を絡めたトリオで売り出すのは悪くない。名もいらぬ鉄舟であり、地味に慶喜のSPに徹した泥舟ではあるが、これで彼らの陰徳が少しでも報われるなら、彼ら義兄弟のファンになった私は歓迎だ。

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