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エッセイ・コラム

ジャーナリズムと知る権利

平尾 富男

 ちょうど今から4年前の2009年7月6日に書いて、このコラムに投稿した原稿である。今でも状況が変わっていないジャーナリズムの問題について、その報道に頼っている自分自身と周囲の人々の姿に不安を覚えて改めて投稿するものである。(因みに、現在このコラムの一番古い書き込みは、2010年4月であるから、元の原稿はどこにも掲載されていない)

 われわれが知りたいことを知りたいときに知らせてくれるのがジャーナリズムのあり方だと学校で習った記憶がある。

 過去の日本の戦時体制下は言うに及ばず、9.11直後のアメリカにおける急進的ナショナリズムの高揚に良心的ジャーナリズムの力は限りなく小さかった。過去においてはジャーナリズムが国家に対して、戦争を止めさせることは出来なかったことは既に周知の事実である。
 ジャーナリズムが権力に加担しただけではない。世論にも流されたのである。「世論は魔物だ」と然る政界の大物が言ったが、世論も時に集団暴走することの例はまだ記憶に生々しい。

 一般大衆にとって世の中の動きを知る手段は、新聞・雑誌などの活字メディア以外に、テレビやラジオは勿論のこと、パソコンや携帯電話などがある。ありとあらゆる分野にわたって刻一刻と新しい情報が洪水のように押し寄せてくる時代になったが、ニュース・ジャーナリズムとしてのマス・メディア報道の現状には大きな不安を覚える。
 テレビでは、有名芸能人・タレントや専門的有識者を交えた派手な報道・討論が解説・分析付きで面白おかしく提供される時代だ。電車に乗れば、「売らんかな」主義の週刊誌の派手な車内の中刷り広告によって、その時々の新鮮なニュース、事件・話題が誰にも無償で提供されるから、国民全てがその時々の報道解説者にもなれる時代になっている。一見すると、日本には全体主義国家のような言論統制はまったくないし、国民は言論の自由を謳歌しているといっても言い過ぎではないような様相である。

 ほとんどの国民は、際限なく溢れ出てくる情報を「共有」している。中には一過性で、瞬時に忘れ去られてしまうものも少なくない。また、ある一つのセンセーショナルな事件・状況が起こると、全てのメディアがその情報の伝達と内容の解説に集中し、本来看過できない重要な情報が、必要な時点で一般大衆に伝わらなくなることがある。そうなれば、必ずしも権力によって情報が隠蔽されたわけではない場合でも、結果的には歪んだ情報操作がなされたことと同じ状況が起こる。
 本来なされるべき報道も国民の目に触れられないことも皆無ではない。一般受けしそうな犯罪事件などのニュースが集中豪雨のように襲ってくるのが日常的になると、情報の選択が結果的に失われていくように感じている人は少なくないであろう。

 ところで、日本に報道のタブーはあってはならない筈だが、マスコミの世界では「菊(天皇家)、星(米軍)、鶴(創価学会)」が批判の対象とされない報道タブーの代表なのだそうだ。
 憲法上も国家の象徴である「菊」と、戦争を放棄した我が国を守ってくれる(?)「星」、そして連立政権の一翼を担う政党の陰の宗教団体「鶴」に対して、真っ向から批判ができないのであれば、現在の日本のジャーナリズムは危機存亡の時期を迎えているのではないだろうか。
 その上に、広告主としての大企業に対する批判がジャーナリズムの「自主規制」によって行われなくなる事例に事欠かない。

 知る権利は国民の手にあり、表面的には立派な民主主義国家なのだけれども、国民全員が同じ情報を基に、与えられた意見・解説を自分の口で繰り返しているのには、恐ろしさを感じないではいられない。

(2009.07.6 → 2013.07.07)

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