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エッセイ・コラム

ウーマンパワー・アゲイン

富岡 喜久雄

 男女雇用均等法が施行されたのは昭和47年、同60年代に女性保護のための労働時間制限などが撤廃されてきたが、これはどちらかと言えばウーマンリブに代表される両性の機会均等を図る意味合いが強かった。結果、昨今のTV番組は刑事ものも、裁判ものもボスは女性とするものが多いし、大型ダンプやタワークレーン、バスの運転まで女性がやりだした。一方看護士、保育士等従来女性職場とされてきたものに男性の進出もあり、男女雇用機会均等の世界は現実となりつつある。それをさらに進めてアベノミクス第3の矢では具体的に女性活用の達成指標まで掲げられた。たしかに能力ある女性を家庭、子育てだけに縛りつけるのは資源の無駄使いともいえるし、過去と違い女性の教育水準も男女変わらなくなってきて、女性の意識も家庭に縛られるのを嫌う傾向にあるのは事実だろう。家庭に縛られて視野が狭い狭量な意見ばかりが出るのも問題ではある。政治を動かす投票権の半分は女性にあるからである。
 一方人口減少の原因たる晩婚化、少子化の社会現象については、その理由がいろいろ挙げられ環境ホルモンによる精子の減少統計まで国際比較データーがでる始末である。保育所への待機児童解消策や児童手当支給など出生率引き上げのための施策目標も掲げられた。果たしてこうした物的な奨励策だけで効果があるか疑問を感じる。要は女性の意識と、社会における家庭の在り方をどう折合いつけるかが問題なのである。子供は社会のものか、家族のものか前政権でも議論のあったところである。嘗て南米チリのサンチャゴ市で、そこの女性水産局長と竣工式後のパーティーで議論したことを思い出す。彼女はシカゴ大学卒のエリート官僚で夫を同一部局の部下として使っているし、紫煙絶えない弁論家だが、その女性局長曰く、「日本女性は従順だと言うが、無知で自由のない奴隷みたいなものじゃないの」。これには自分も亭主関白に近いとの思いはあったが、流石にカチンと来た。日本人として黙っていられない。

 「男は働き蜂、女性は家庭を守る女王蜂。分業体制で奴隷なんかじゃない。家庭の主人は主婦なのだ。船に例えれば母艦の艦長、夫は外で戦い母艦を守る戦闘機だ」と言葉荒く反論したことを思い出す。

 女性の社会的進出の効はともかく罪はないのかと、とつおいつ愚考するうち妙な題名の本見つけた。「日本の男を食いつくすタガメ女の正体」なる本である。著者は大阪大学経済学部准教授、しかも女性とあったから、あざとい表紙に躊躇はしたが興をそそられ買ってしまった。それによると、タガメとは体長五十ミリ程の水生昆虫で、大きな鎌型の前足でカエルをがっしりと捕え、その血肉を吸い尽くすと言う。そして昨今の男女関係を女がタガメ、男をカエルに例えその生態を語っているのである。著者は男子の草食化、晩婚化ひいては日本経済の元気のなさも、このタガメ女がアメリカ的幸福な家庭生活なる「たが=箍」を男に嵌め、がんじがらめにしているからだと言うのだ。婚活から、家作り、子作り、子育てまでタガメ女がいかに巧みにカエル男をとらえその血肉を吸い取っているかを、社会人類学的実態調査から面白おかしく描写する。それが現実ではあっても誇張気味だから両性から反論が出そうな内容ではある。辛抱して一読し思い起こせば、住宅バブルの崩壊から始まる日本経済の停滞の二十年は、TVや歌謡にも謳われた物的に豊かなアメリカ的家庭生活という幸福幻想に縛られた結果であるかもしれないと思えてきた。著者はこれを「魂の植民地化」だと言い、最後にその解決策は「タガを無視して自分に正直に生きる」ことだと具体案を示さず簡単に切り捨てる。

 我らが世代は、敗戦の廃墟から日本再興のため、自らの意志で働き、自分の家庭を築いてきたから、タガメ女に操られたという意識はないだろう。専業主婦として働き蜂を支えてきた女性たちも、それなりの誇りを持って人生を語れるは筈だ。保守的な家庭論を主張するつもりは無い。女性が自ら好んで社会的進出を望むなら、一方的に家庭に縛り付けようとは男性側もしないはずだ。だが著者の言う現代のタガメ女を、子育てし、餌を求めて狩りまでこなす雌ライオンにまで変えるのは、至難の事と思えてならない。タガメならずも、可愛い雌鳥でいた方が楽だろうし、やはり雌雄の役割があると思うのである。統計は新生児の男女比は男が高く、そして平均余命は女性より短いことを示している。神の手はやはり賢明なのだと思わざるをえない。

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