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エッセイ・コラム

伝単(ビラ)

西田 昭良

 空は抜けるように青かった。  しばらく一滴の雨も降らなかったせいか、渡良瀬川の水嵩は極端に減り、あちこちに中州が露出していた。
 絶好の水泳日和である。昭和20年(1945年)7月の或る日。つまり、終戦を迎える8月15日よりひと月ほど前のことである。
 早々と朝食をすませ、先生に引率されて川べりにやってきた東京の疎開っ子たち。30人ほどの甲高い声が、強い陽射しを掻き混ぜるようにして中州に弾んでいた。
 東京での学校は郊外の武蔵野の一角にあったから、近くには川やプールもあって、生徒たちは河童が多かった。5年生ともなると、先生も安心して河原で遊ばせている。
 しばらくすると突然、けたたましい空襲警報のサイレンが河原に鳴り響いてきた。東京にいた時もそうだったが、最近では事前の警戒警報も鳴らずに、突如、空襲警報のサイレンが鳴り出すことが多い。
 子供たちは狼狽した。周囲のどこにも身を隠す場所が見当たらない。成層圏とはいえ、敵機から丸見えだろうし、爆弾の威力や投下の正確さは東京空襲でさんざん味わってきた。先生の指図を待たずとも子供たちは一か所に固まることなく、河原に散らばって、大きな石の陰に砂を掘っては身を隠した。
 やがてB29特有のウンウンという爆音が頭上に近づいてきた。見上げると敵は一機だけだった。なんだ偵察か、と子供たちは安堵し、水遊びに戻った。
 何事も起こさずに敵機は退散した。しかし、しばらくして子供たちは頭上の異変に気がついた。大空一面に雪のようなものが無数に降ってくる。
 待ちかまえて手にしてみると、それらは半紙ほどの大きさのアメリカの宣伝ビラだった。写真入りの日本語がびっしりと印刷されている。白く、上質な紙が使われ、漢字はすべて振り仮名つきなので容易に読めた。東條英機大将や鈴木貫太郎内閣の集合写真、サイパンや硫黄島の玉砕記事や写真など、日本の新聞よりはるかに鮮明だった。
「日本国民は東條英機にだまされている、って書いてある」
「どうせ負けるんだから早く降伏しろ、って云ってやがる」
「どうして、こんな写真を敵が持ってるんだ」
「そりゃ、スパイがいっぱいいるからよ」
 何種類もあるビラを互いに見せ合いながら、子供たちのこんな会話が中州を飛び交った。誰もが手一杯にビラを集めるのに、それほどの時間はかからなかった。
「あ、憲兵だ」
 誰かの声に顔をあげると、100メートルほど先の土手に数人の憲兵が見えた。憲兵は遠くからでもすぐに見分けがつく。黄色い軍服に黒いツバ付きの帽子、そして黒い長靴を穿き、腕には白い腕章を巻いている。乗ってきたサイドカーを降り、通行人からビラを取り挙げている。きっとこっちにもやって来るぞ、と誰もが思った。
 どうしてもこれらのビラを憲兵に没収されたくはなかった。もっとじっくりと読みたい。一枚でもいい、このしごく珍しいものを大事に取っておきたい、と僕は思った。
 どこかに隠すところはないか。砂を掘って埋めるのではすぐに見つかってしまうだろう。かといって今はフンドシ一丁だ。
 ふとひらめいた。そうだ、その中だ。六尺の幅広い赤フンは、がっちりと股間を固めている。いくら憲兵だってフンドシの中まで調べはしないだろう。
 一枚のビラを小さく折って、皆の視線を避けながら、フンドシの中に素早く押し込んだ。少し歩きにくく、痛いが我慢をしよう。
 近づいた憲兵は先生に二言、三言何かを告げると、皆に向かって大声で云った。
「敵のこんな宣伝を信用してはいかんぞ! 一枚残らず全部差し出せ。もし隠したら憲兵隊にしょっぴくぞ!」
 子供たちは渋々ビラを憲兵に差し出した。この事件で今日の水泳時間は中止。こぞって厄介になっている寺の本堂に戻ることになった。
 僕のビラ隠しは成功した。しかしこの成功が次の災いの元となった。本堂の片隅で密かにビラを読んでいるのを仲間に見つかり、先生に告げ口されたのだ。
 先生は真っ蒼になって本堂に飛び込んでくると、僕を立たせ、有無を言わせず強烈な往復ビンタを喰らわせた。
「この国賊めが!」
 僕の小さな体は、本堂のもう片方の隅へとすっ飛んだ。口の中が裂け、血が噴き出した。倒れても、何度も立たされてはビンタを喰らった。
「お前が捕まれば、先生も、他の生徒たちもみんな処刑されるんだぞ、この国賊めが!」
 以前からイジメっ子たちの足の裏に屈していた僕は、この事件以来、〝国賊〟というレッテルが貼られ、イジメは激しさを増した。今まで以上に食事やオヤツは召し取られ、栄養失調は更に進んだ。
 戦後、帰宅した際に診察した医師は云った、「もう少し遅かったら回復は不可能だったろう」と。
 この戦争体験の一齣は、戦死や負傷した兵士に比べれば取るに足らないものであったが、僕の人生の中では大きな出来事の一つであった。
 終戦記念日が近づくと、いつもこのビラ事件を思い出すのである。

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