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エッセイ・コラム

石の音

西田 昭良

 本当に、イヤになるほど、頭が悪い。
 神からの恵みである貴重な天水を一滴も貯めることなく流してしまう樋のように、記憶力に乏しいのだ。これは生まれてからこのかた、少しも変わっていない。不断の努力を怠ってきたことを棚に上げて、我が家系のDNAに起因をなすりつけておこう。
 多血の上に無分別でオッチョコチョイ。理路整然とはほど遠い思考回路。大体そういう型の人間はいかなる知的作業にも不向きであり、囲碁などのように緻密さを要し、理論的なゲームにはからきし弱いのである。
 にも拘わらず、碁がメシも好きなアホな私。
 それにしても碁は解からない。手段が多種多様で数が多く、やればやるほど、凡庸な頭脳では理解し難い。本を読んだり、テレビなどで解説されると、成るほど成るほど、と感心するのだが、実はそれは錯覚。解かったような気がするだけで、実際、盤面に向かってみると、いつも頭の中は真っ白け。きのう読んだ本も、さっきのテレビ解説も、宇宙のかなたに飛んで行ってしまっているのである。
 どうせ解からないのだから、同じくらいの棋力の相手と勝ち負けだけを楽しんでいればよいものを、生来の負けず嫌いか、負ければ悔しく、勝てば満足。だから、少しでも強くなろうと励む。更に囲碁の深奥な世界を少しでも知りたいと、柄にもなく欲をかく。
 しかし、いくら励んでみても解からない。小さい時にもっと勉強しておけばよかったものを、余命幾ばくも無くなった今頃になって苦しんでいる。
 ああ、もう碁なんかイヤだ。止めてしまってカラオケにでも転向するか。
 とりわけ今日は紙屑のように悲しい。あの愚行は一体なんなのだ。ビギナークラスの簡単な詰碁を深く読みもせず、自ら底無し沼に首を突っ込むようにして死んでしまった。
 自業自得。自分の不甲斐なさに涙が止まらない。勝負だけに拘っているつもりはないけれど、連戦連敗が意気消沈に輪をかける。
 囲碁を捨て、一日中くだらないテレビ番組を見たり小説を読んだり。またこういう時、旅行はいい友になってくれるものだ。
 だが一、二週間ほどもすると耳の奥に変化が起こる。石の音が遠くから響いてくるのだ。それは日向(ひゅうが)蛤の白石、那智の黒石。かまってくれよ、握ってくれよ、打ってくれよ、と狼が友を呼ぶような遠吠えが聞こえてくる。
 ああ、どうしよう。しばらく縁を切ると誓ったのに、未練がましい我が身をなじる。
 心の揺れが続く。やがて、居ても立ってもいられなくなり、逡巡の峠を転げ落ちるようにして、碁会所に向かってしまうのである。女房に言いつかった仕事や買い物などもそっち退けにして。
 今日は台風一過、天気もよく、清々しい。待っていてくれ、石の音よ、我が友よ。

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