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エッセイ・コラム

ご隠居の涙

西川 武彦

 20年来、八ヶ岳南麓の山荘に、ほぼ隔週、車で通っている。春夏秋冬である。ところが、昨年12月の笹子トンネル落盤事故で二ヶ月も足止めをくらってしまった。都会の喧騒を逃れて、閑静にして清浄な隠れ場で息を吹き返す生活習慣が途切れてしまったのだ。
 やっと開通したのが2月8日。たまらず、翌9日は6時起きで中央道を飛ばし、長野に向った。5キロに近い長いトンネルを抜けて白い南アルプスを望んだときには、尾籠な喩えで恐縮だが、便秘が開通したような爽やかな感じがしたものだ。

 山荘は、凍結防止のため水道の水抜きはすませていたが、12月初めにやるべき冬場の鹿害対策に手抜きがあった。山荘を建てた20年余り前、苗木を求め、手塩にかけて育てた「桂」の樹皮が、地上から二メートルの高さまで鹿に食べられていたのだ。
 主幹と、根元から枝分かれした左右の二本、合わせて三本ともやられていた。マロニエ、コナラ、桜、ナナカマドなどは無事である。針葉樹も手がつけられていない。見目麗しい桂だけが襲われていた。今や身の丈十五メートルで、主幹の根回りは五十センチはゆうにあろう。
 むき出しになった柔肌は寒風に晒されて痛々しい。恋人が犯されたような悲しさがご隠居を襲う。生々しい傷跡をそっと撫でると不覚にも涙ぐんでしまった。体感で零度を下回るなか、鼻水も一緒にポトリ。悲しいやら、情けないやら……。
 長いドライブの疲れも忘れて、すぐに町で治療薬を求めた。『トップジンMペースト』という枯病防止の塗り薬だ。舌をかみそうな難しい名前だから、効くかもしれない。患部にオレンジ色の粘液を刷毛でしっかり塗布、という指示がある。連れ合いの助けを借りて、獣医ならぬにわか「樹医」は夢中で治療。一夜おいて乾いたあとは、目が粗い薄い茶系の特製の布を包帯のように巻いて終了した。

 別荘村の同人誌の最新号のテーマは、『至福のひととき』。寄稿した筆者のエッセイはこのように〆ている。
「……農作業のあとは、お風呂でゆっくり疲れを癒すと、谷を見下ろすテラスで。赤いグラスを片手にちびりちびり……。今やすっかり成長した愛妾?の『かつら』や『さくら』を眼中に侍らし、西日で染まる秋の空の鰯雲を追って、こんなことを考えながら、至福の一時を過ごす。鹿害の傷からなんとか一命を救って大事に育て、今や15メートルを超えた『かつら』が、その向こうに聳える唐松と背を並べる大木になるまで元気でいたい。」

 ちょっとした油断で壊されかかったこの夢をなんとか叶えたいと、ご隠居は呟いている。

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