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エッセイ・コラム

中江兆民にみる保守思想

大平 忠

 文芸春秋11月号に掲載されている西部邁の文章を読んで驚いた。
「中江兆民は保守思想の先達である」
 私の今までの兆民に対する理解は浅い。明治初頭、フランスに留学。
 ルソーの「民約論」を漢文で訳した。自由民権運動に奔走。帝国議会で政府と妥協する民権論者に絶望して、さっさと議員を辞職。「四民平等」といいながら国内の差別の放置とアジアの民に対する無関心を糾弾。大酒飲み。息子にはヒューマニストで高名の丑吉がいた。
 この程度であった。従って、兆民はその名のごとく、民の立場からの目線で、帝国議会政治を見限り世の変革をラディカルに行おうとしていた人ではないかと考えていた。
 そこで、西部邁が最近読んだという『三酔人経綸問答』他の著作を覗いてみた。なるほど、西部氏の書いてある通りである。著作の基調に流れているのは、「漸進」の考え方である。政治とは、過去の経験、蓄積を重んじながら、地道にできる仕事をやっていくものと繰り返し述べていることが分かった。
 西部氏がその代表的な言葉を引用している。
「いやしくも国家百年の大計を論ずるような場合には、奇抜を看板にし新しさを売物にして痛快がるというようなことがどうしてできようか」
「立憲制度を設け、上は天皇の尊厳と栄光を強め、下はすべての国民の幸福と安寧を増し、上下両議院を置いて、上院議員は貴族をあてて代々世襲とし、下院議員は選挙によって選ぶ、それだけのことです」これらの言葉は、今も将来も真理であろう。
 万民の自由と人権を主張している兆民は、一方では民衆の残虐さと利己的な面を、革命からパリ・コンミューンにいたるフランスを目の当たりにして肝に銘じたようだ。「自由平等友愛」を謳い文句にした人民が、植民地主義を当たり前のように押し進めることも見逃していない。
 1901年に亡くなった兆民は、政治においては、劇場型政治、ポピュリズムに陥ってはならぬと百年以上前に見通していたのであった。

(平成24年11月25日)

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