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エッセイ・コラム

日本の文化は特殊か

野瀬 隆平

「一般大衆を犠牲にして、組織の利益を優先させるという組織中心の考え方が日本文化というのなら、我々はすべて日本人ということになる」
 これはアメリカの政治学者、ジェラルド・カーティス氏がFinancial Times紙に書いた、福島原発国会事故調の黒川委員長のメッセージに対する批判的な論評の結びの部分だ。

 この膨大な事故調査報告書をすべて読んだわけではないが、委員長のメッセージなど、ざっと読むかぎり、調査に対する取り組み姿勢には大いに共感を覚える。このことは本コラムでO氏がすでに述べておられる。

 あえて、考慮すべき点があるとするならば、黒川氏が冒頭のメッセージで、今回の事故はつきつめると「日本の文化」に起因するとした点だ。我々日本人には何となく理解でき、抵抗なく受け入れられる気がするが、少なくとも一部の外国人に違和感を抱かせた。

 ジェラルド・カーティス氏もその一人で、彼が批判している点を要約すると次のようになる。

  • 日本文化の特殊性に事故原因を求めているため、当事者個人の批判はしているものの、最終的には責任をその個人に負わせるという立場をとっていない。
  • 誰がその任にあったとしても、結果は同じだったというが、もしも、菅首相が東電に怒鳴り込まなかったり、現場の吉田所長が上からの命令に反してまでも、信念に基づいて現場を指揮していなかったら、結果はもっと悪くなっていただろう。
  • 権威に弱いというのが日本の文化だというのなら、なぜこの報告書のように権力を非難するものが可能となるのか。
  • 原子力村の独特な文化が問題とされるが、これは何も日本に限ったことでは無い。例えば、アメリカでのリーマン・ブラザー破綻以降の金融界の対応を見てみると、むしろ、類似点が多く浮かび上がってくる。人的原因で起こった問題だと認識しながらも、改革しようとする動きや、特定の個人の責任を追及することに抵抗し続けている。

 この批判が妥当かどうかは別にして、同じような重大事故を再び起こさないために、根本的な原因と事故の本質を正しく理解することは不可欠であり、責任の所在を明確にしておかなければならない。

 思い起こされるのは、第二次大戦に日本が敗れたとき、誰か特定の人が悪かったのではない、国民全体が悪かったのだから「一億総懺悔」しなければいけない、という世の中の風潮である。言い換えれば、これも日本人の物の考え方、「文化」が原因だったという考えに基づいている。

 しかし、そのような考え方を日本に固有な文化と捉えるのは妥当なのだろうか。あえて、アメリカなどの欧米諸国と異なる文化・風土が日本にあるとするならば、それはむしろ日本人が個人としての確固たる意見・考えを持たず、世間で大勢を占める風潮、世論に流されやすい点ではなかろうか。

注:黒川委員長の英文メッセージとカーティス氏の批評文を、2012年9月19日に開催される当クラブの「英語を読もう会」のテキストとして取り上げるため、その参考資料として書いた。

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