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エッセイ・コラム

散(さん)居村(きょそん)

西田 昭良

 小まめな友人が、数か月も前からコツコツと準備をし、メンバーも数人纏めてくれた旅行計画に、私は一にも二にも跳びついた。
 目的地は富山県砺波(となみ)市にある広大な平野。そこに散居村といわれる特有の形態を成す集落があるという。
 都会では、各戸は狭い土地で肩を寄せ合ったり、重なり合ったりして暮らすのが普通だが、砺波平野の集落では一戸一戸の農家がぐるりと何本もの屋敷林に囲まれ、しかも百メートルほどの距離を置いて点在しているという。散居村と呼ばれる所以である。
 家の周囲が所有する田畑。遠くまで出向かなくても農業を営むことができるという理想的なシステムだ。大昔の守護・地頭の時代から続いているのだろうか。
 展望台から望む砺波平野全体の鳥瞰風景を、雑誌やネットで何回も観ているうちに、私はいつの間にか天高く飛ぶ鳥になっていた。時おり、村中を碁盤の目のように走る側溝の清流で喉を潤す。
 旅行日が日一日と迫ってくるにつれて、私は小学生のように興奮してくるのだった。
 ああ、それなのに、それなのに、選りによって出発当日になって、8年振りとかいう季節はずれの6月台風に見舞われてしまったのだ。何ていうこった!
「へ、へ、へ、日頃の行いが悪いから」
 という女房の妬心も混じったからかいに、重いリュックが更に重くなる。情報では、富山への飛行機は平常通りに飛ぶという。
 富山市内に住む仲間の一人が空港に出向かえに来てくれた。天気(これ)ばっかりは仕様がねえよ、と互いに慰め合いながら、彼の車で展望台へ向かう。
 冬にはスキー場になるという展望台の周辺は結構高い。登るにつれて雨雲は厚くなり、頂上に着いた時には散居村は雲の下。視界はゼロ。一縷の望みも潰(つい)えてしまった。
 散居村の眺望も村の探訪も不能になると、鳥になれなかった旅人たちは、急きょ食い意地のはった豚に変貌した。豚は豚でもセレブ豚。近くに流れる庄川名物の鮎を腹いっぱい食らい、旅館の食卓は銘酒と新鮮な富山湾の海産物で賑わった。
 今回は暴風雨に弄(もてあそ)ばれた旅行に終わってしまったが、何十年ぶりかで、忌憚のない友人たちと深夜まで、「そんなことがあったっけ」、「まさか」などと、青春時代の想い出に花を咲かせたのは、何よりもの収穫だった。
 散居村はいつまでも魅力ある姿を保ち続けるだろう。いつになるか分からぬが、楽しみな再訪には、黄泉空港からではなく、再び羽田発の飛行機にしたいものである。

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