作品の閲覧

エッセイ・コラム

捨てられぬ靴がひしめく下駄の箱(酔雅):

西川 武彦

 私はチューリッヒ生まれのバリーの黒靴です。25歳になりました。スイスに出張したご主人が、靴の底に穴があいたとかで、店に入って来られました。ご主人がどれにするか迷っているとき、「これが似合うわ、これにしたら…」という妙齢の女性の一声。ご主人が試し履きするとぴったりです。柔らかい感触が気に入ったみたいでした。嫁ぎ先が決りました。
 ご主人は、古いのは店に引き取ってもらい、早速私を履いて満足そうでした。並びの宝飾店で連れの女性に銀製のブローチを贈り、夕食を済ませると、駅から近い一流ホテルのスイートルームに戻りました。ご主人様と私との初夜です。連れ合いの妙齢さんは、取引き先の方のようにも見受けましたが、なにやらわけありの雰囲気が部屋に漂っていました。ダブルベッドにはシャネルの5番が汗に絡んで漂い、上に下にと揺れる声もあったりで、濃厚な一夜でした。

 ご主人は靴にはうるさい方でしたが、相性がよかったのか、現役時代には週二日はご一緒しました。お仕えした頻度は一番だと自負しています。ご主人の退職後は、イタリア製、ドイツ製、国産など数多くの黒靴たちと余生を送っています。
 棲むのは、ご主人のお宅の玄関にある作り付けの下駄箱です。入居した当時は、洒落たデザインの布で覆われた引き戸が気に入っていましたが、今ではそれもよれよれ。ドアに向かって右側が旦那様用、左側は奥様用となっています。
 三段に分かれた旦那様用は、上の二段が黒靴専用、一番下がスポーツ・シューズ用と決まっています。各段に五足が収まる仕組み。私の定位置は一番上の左隅です。お声がほとんどかからなくなった今でも、草臥れきった高齢者の仲間たちとスタンドバイしています。捨てられないのは、夫々に思い出があるからでしょう。
 狭いスペースです。臭気が堪りませんが、ご主人の愛情の残り香と思い、黙って耐えています。いずれご主人の寿命が尽きるとき、お棺の中でご主人に履いて貰う一足になるのを夢見ながら……。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧