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エッセイ・コラム

スクエア・ダンス

西田 昭良

 先ごろ、『あの頃 アメリカ』と題したコラム(全20回)が某新聞の夕刊に連載された。
『あの頃・・・』とは、もう60年以上も前の終戦直後の頃。敗戦で皇国軍国主義から一転してアメリカ民主主義を受容した国民感情とその実態はどうであったか、を顧みたものである。
 その頃、「ダンスを平等への扉と見なした教育者」ウインフィールド・ニブロという男がGHQにいたそうだ。敗戦の日本の教育改革を指導する任を負っていた。〝平等〟とは男女間のことか。
 ダンス普及の手掛かりにニブロは、長崎の大勢の小学校教師を集めてスクエア・ダンスを教えた。教師たちはダンスの中に今まで奪われていた自由の臭いを嗅ぎ、それを楽しんだという。
「もう面白くて、面白くて」、「先生同志で恋が咲き」、何組もが結婚した、と、その頃を懐かしそうに語る一人の女教師が登場する。笑顔の写真まで載った。(第3回から4回)
 長崎での成功を見て、民主主義を教えるのには好材料と文部省が思ったのか、あるいはGHQの命令か、スクエア・ダンスは全国の小・中学校に導入されることになる。
 その頃、丁度小・中学校を過ごしていた私は、この記事を読んでゆくにつれて次第に腹の虫が治まらなくなってきた。いったい、文部省の担当役人も、ダンスを歓迎した先生たちも、当時の生徒たちの心中を一瞬たりとも慮(おもんぱか)ったことがあったのだろうか。
 先生が生徒たちの、心中を含めた実体を深く考察する、という民主主義教育の基本原則を疎かにして、アメリカを称賛し、自分たちだけの興味本位でダンスに現(うつつ)を抜かしていたことに、腹が立ってきたのである。当時の教師の実態って、こんなものだったのか。
 小学生たちは、「男女7才にして席を同じゅうせず」、「男子は現人神(あらひとがみ)の天皇と国家を護るためには死をも辞さず」、「鬼畜米英」、「神風が必ず勝利をもたらす」などという精神訓を入学以来叩き込まれ、難しい字句すらも暗記できるほどになっていた。
 それなのに、戦争に負けると、掌(てのひら)を返したように、今日からは民主主義だ、男女共学だ、女の子と手をつないでダンスを踊れ、裁縫もやれ、と戦時中と同じ先生がいけしゃあしゃあ(・・・・・・・・)と声を大にする。極度の食糧難で痩せ衰えた生徒たちの心身はいまだに快復せず、新旧教育の潮目で木の葉のように揺れていたのである。
 この教育方針は中学にも引き継がれることになるのだが、少し大人になった新制中学生たちの多くは反抗心をむき出しにして、チャンチャラ可笑しいや、とダンスや裁縫の時間をサボった。そういう連中は皆、学校の成績は急落した。当然その中に私もいた。
 くどいようだが、その頃の小・中学生たちの多くは、急激な教育方針の転換に戸惑い、羅針盤を失った船のように、どこへ向かって進んでいいのやら右往左往していた。大人たちはいざ知らず、子供たちは子供なりに深く悩んでいたのである。
 もう遠い昔の話である。しかし現在(いま)になってもバージニヤリールやオクラホマミキサーの曲を憶えているところをみると、反抗と羨望が入り混じった思春期の複雑な苦悶を抱えながら、校庭の木陰から密かに踊っている連中を覗き見していたのかも知れない。
 このコラムには、こころよく語られる『あの頃 アメリカ』が語られているが、その裏に、当時の子供たちはどうであったか、などに関しては一言も触れていない。執筆記者が若いのか、平和ボケしている新聞の限界なのか。
 少し横道にそれるが、昭和26年、GHQのトップであるマッカーサーがアメリカ上院議院に呼ばれ、日本における民主主義の浸透度合を問われたとき、彼はこう答えたとされている。
「科学、美術、宗教、文化などのあらゆる発展の面から、ドイツは45才の壮年。しかし日本はまだ12才の生徒時代である」と。
 この見方については賛否両論があろうが、上記新聞のコラムを読むかぎりマッカーサーをしてそう言わしめたのも、うなずける。
 余談のついでに。当時、政財界に多く居た親マッカーサー派連中は、彼の功績を讃えて銅像を建てる話を進めていたが、この〝12才説〟を聞いて憤怒し、反マッカーサー派に豹変、銅像は反故になったそうである。
 今、日本の現状を見て、墓場のマッカーサーは今何才くらいだと評価するだろうか。

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