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エッセイ・コラム

株式会社「日本」

野瀬 隆平

 日本の国を、会社の財務・経営になぞらえて見ると、会社全体(日本国)としては、黒字経営で純資産を持っているが、大きな負債を抱えた赤字部門(政府)のために、黒字の他の事業部(民間企業や個人)が資金を貸付けて、この赤字部門を温存させているようなものだ。民間の会社ならば、そんな赤字の事業はやめてしまえというところだ。しかし、この部門(政府)はいわば本社部門のようなもので、他の事業部門にサービスを提供する役割を持っており、簡単につぶせない。
 工場が必死になってコスト削減に努め、利益を上げようと努力しているのに、本社部門が立派なビルに入り、多くの人間をかかえて豪華な重役室には役員がごろごろしているのと同じだ。
 ただ、国が民間の企業や個人と決定的に違う点が一つだけある。それは国には通貨の発行権があるということである。会社や個人は資金繰りがつかず、借金が返せなくなったら破産するしかないが、国の場合は最後の手段として、紙幣を印刷して穴埋めすることが出来るのである。

 国が1千兆円という大きな借金を抱えているのは、明らかに好ましくない事態である。しかし、問題はその事実をどう理解し、具体的にどう対処するかである。ただ大変だと騒ぎ、思い悩んでいるだけでは、皆が落ち込んで事態はむしろ悪化するだけだ。むしろ、借金まみれになっていという、いわば強迫観念から抜け出すことも、冷静な判断を下すうえで大切なことではなかろうか。
 少々、突拍子もない考えだが、いっその事、国債という形で国が抱えている借金を、「資本金」とみなしてしまってはどうか。民間企業では当然のことながら、事業のための資金としてすぐに返済する必要のない資本金が用意されている。社債を発行して借金をしても、転換社債として資本金に繰り入れる方法もある。これと同じように、国にも資本金があってよい。出資者は日本国民であり、日本銀行かも知れない。株式化するといっても、現在の国債の持ち主から召し上げるわけではない。市場で自由に売買できるのは、国債と同様である。しかし、当然のことながら、その株価は国の経済力・政治力に応じて変動する。
 膨大な国債の残高をもって、「孫や子に借金を残す」というが、出資している資本金を株という資産の形で親が子に残すと考えることもできる。多分に詭弁であることを承知の上で、あえてこんな考え方もできると言いたいのである。

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