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エッセイ・コラム

漱石の足跡を訪ねて(熊本時代)

都甲 昌利

 夏目漱石は明治29年(1896)4月、29歳の時、四国の松山中学から熊本の第五高等学校に赴任する。彼は引っ越し魔で熊本で6回も住居を変えるが、最後に住んだ住居が今でも保存され残っている。住所は熊本市内坪井4-22。市の中心から離れた今でも静かな住宅地で周りに高い建物はない。彼は熊本を「森の都」と呼んだくらいだから、当時はもっと静かな所であったに違いない。
 私はJR熊本駅からタクシーで訪れた。石柱の門をはいるとかなり大きな瓦屋根の家屋が見える。庭も広い。玄関には夏目金之助の表札がかかっている。玄関をはいると十畳の日本間がある。床の間に「則天去私」と書かれた掛け軸がかかっている。文机はあるが家具などはなく如何にも漱石記念館といった風情だ。奥の洋間には漱石に関する資料や写真が陳列されている。
 漱石の五高の生徒で俳句の門下生であった寺田寅彦が書生として住み込んだといわれる小屋が家の裏にあったが、これは物置小屋だったので寅彦は断ったという研究者もいるとかで真偽のほどは分からない。

「名月や十三円の家に住む」

 という俳句があるので、漱石の月給百円というから、そう高い住まいではない。
 漱石は熊本で結婚して長女が生まれる。夫人は字が下手だったので漱石は長女に「筆子」と名付けた。筆子の子供たち、つまり漱石の孫のマックレイン・松岡さんや半藤未利子さんはいずれも名文を描く随筆家となった。
 熊本時代の4年3カ月の間、漱石はよく旅行をした。阿蘇登山や玉名郡の小天温泉など小説「草枕」や「二百十日」などの舞台となっている。
 「草枕」の冒頭は「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい」で私の好きな一節だ。漱石の小説の中、熊本での体験が随所に出てくる。『三四郎』という小説も主人公が第五高等学校を卒業し東京の大学に入る物語だ。三四郎が大学に入るため上京する車中の会話、彼が「日本はこれからだんだん発展するでしょう」と云うと、四十がらみの男(後の広田先生)が「滅びるね」とつぶやく。漱石は小説家であると共に鋭い文明批評家でもあった。
 創作意欲がこの熊本で旺盛になったことは間違いない。彼の生涯にとって最も充実した期間だったのではないか。東京にいる親友の正岡子規に「教師を辞めて文学三昧の生活を送りたい」と手紙を書いているほどだ。
 しかし、彼の思いとは正反対に英語と英文学の研究のために文部省給付留学生としてロンドンに旅立つのである。

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