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エッセイ・コラム

初めてのアップルコンピューター

福本 多佳子

 10月6日NHKの朝ドラが終わった後、テレビをつけたまま朝食の後片付けをしていると速報の字が画面上部に現れた。また東北で地震? それともこれから地震があるの? ところが、アップルのSteve Jobsが亡くなったという速報だった。
  まず驚いたのは、このニュースに接し自分の胸がしめつけられるように重く感じたことだ。実際に会ったことのない人の死に、こんな痛みを感じたのは初めての経験だった。彼がアップルを去ったということで、かなりの重症とは思っていたけれど「こんなに早くに…]と、涙が出そうになった。
  もう一つの意外だったのは、日本でSteve Jobsの死が速報という形で報道されことだ。アメリカと異なり、日本では自分の周りの家族や友人にMac Userが殆どいないのに。
 だが、Steve Jobsがアップルに復帰してから発表された数々のヒット商品、iPod、iPhone、 iPad。その圧倒的人気とアップルストアの存在、Steve Jobsの人を引きつけるプレゼンテーション。成功したCEOである前に完璧で独自の美学に基づく製品を求める天才としての人物像。こうした彼のイメージが単にビジネスとしての成功だけでは得られない、何か特別な感情を人々に与えるのだと納得した。
 この速報を見るなり、SKYPEでアメリカの友人に「Steve Jobsが亡くなったね」と言うと“Oh, No!”とびっくりした。「今、インターネットでBBCのニュースサイトにアクセス中だけど、彼のニュースはまだ載っていない」という。

 ニュースを見た後、私はMacを使い始めた頃のことを思い出していた。
 アップルのコンピューターを使いだしたのは1992年、ニューヨーク大学(NYU)で勉強していた時だった。ルームメートのボブは自宅に置いてあるMacは使ってないから、自由に使ってくれと私に手ほどきしてくれた。当時、彼が働いているラボまではアパートから徒歩で数分の距離、週末もラボにいることが多かったので、そのMacは私専用のようになってしまった。トラブルが発生すると彼が戻って解決してくれたのだから、最高のMac computer入門時代であった。
 大学からTelnet addressをもらい家のコンピューターを大学のHost Computerにつなぐための説明書を持って帰ると、コンピューターおたくのボブが喜んでNYUの担当者に電話をかけ、電話回線・モデムによるオンライン化を実現してくれた。まだ、インターネットブラウザー(WWW)が一般化する前で、大学や研究所といったアカデミックな分野や政府関連ではTelnetによるオンライン化が広まっていたので、Telnetを通じてのヨーロッパの科学者とのメール交信も見せてくれた。
 仕事をしていた時はずっとコンピューター・ネットワークへのアクセスがあったので、学生になって仕事を離れてから電話以外の通信手段が無いことを物足りなく感じていた時だった。限られた人々との間だけであってもText Messageを送ることが出来るようになり、感激した。

 しばらくして大学に近い部屋に引っ越しを決めると、ボブは卒業までここにいて彼のコンピューターを自分の物として使い続けていればと言ってくれた。けれど、そろそろ自分のコンピューターを買って、セットアップから始めたい。新しいアパートに購入したばかりのMac LC IIとプリンターを運び入れ、セットアップが終了すると、これで本当のPersonal Computerだと思った。当時、私が通っていた大学のコンピューター室は全ての computerがMacでプリントは無料だった。毎日のように何十枚というページをプリントしていたものだ。

 大学ではHyperCardという当時、人気のあったソフトで学習用の教材を作るクラスを取ってみた。マウス操作でグラフィックを描き、音声、画像、Quick Time Movieを取り組む。カードとカードをつなぐボタンをつけてリンクさせ、HyperTalkというスクリプト言語で画像を動かすプログラミングも実行させることが出来た。
 最初に与えられたプロジェクトは全員が不思議な国のアリスの物語のHyperCard stackを作成することだった。各ページにマウスを使ってイラストを描くことを学ぶというのが主眼のアサイメントだった。図形のような抽象的な作品もあったが、私はマウスの操作法を習得するべく細かい描写を心がけ、少女漫画的作品を作成した。2作目はMultimediaを駆使して、インタラクティブ(双方向性)な教材を作成するというものだった。イラストだけでなく、デザイン、各種アプリケーションの習得、プログラミングといったことが要求された。

 だが、私とクラスメートはページごとに埋め込むスクリプトを書くのが苦手で、思うように操作することが出来ない。と、同じ時期にColumbia 大学でHyperCard を始めた友人が我々の問題を簡単に解決してくれた。音楽教育専攻の女性だったので「作曲が出来るというのは、プログラミングに向いているのだろうか」と我々NYU組はうらやましく思ったものだ。問題が生じる度に彼女のアパートを訪れる。すると彼女は、ピアノでメロディーを取り、それをページの動作に合わせてHyperCardに組み込んでくれたりして助けてくれる。彼女はアイコンのような小さな絵を描くことも得意としていて、独自のアイコンをいくつも作成しては、CompuServeに応募し、採用されていた。
 ページへの音声取り組みには、私が選んだコミックの絵に合わせた小会話をボブが録音してくれた。曲も彼がイメージに合う物を選んで提供してくれた。

 あるとき、夜、自分のコンピューターで作成したHyperCardの作品をフロッピーに入れて大学のコンピューターで仕上げをし、「これで完成」と喜びかけたところ、日本語ページが文字化けしていることに気がついた。日本語でタイプした文字は、いったんイメージに変換しておかないと英語版Macでは読めないのだ。提出直前に文字化け箇所をいくつも見つけて大慌てしたことも、今では懐かしい思い出である。

 大学のコンピューターにはリソースとなる沢山のイメージファイルが入っている。それをコピーするために常に余分のフロッピーディスクを持ち歩いていた。HyperCardクラスでは、そうしたリソースだけでなく、Video Clip作成の為のソフトをはじめとし、各種のソフトをコピーさせてくれた。(クラス終了時にはコンピューターから削除するという約束で)
 その頃には、私たちはTelnetでのメールではなくAmerican OnlineかCompuServeのどちらかに登録して自分のEmail addressを持ち始めた。まだまだ、東京の友人とのEmail通信は皆無だった頃である。もっぱらニューヨークの友達とのやり取りで、外出の約束もメール中心となって行った。アメリカ青年の友人は自宅に戻るなりチャットに夢中になっていた。日本の友人へは自分のMacからファックスを送っていた。
 こうしたことが20年ほど前、私がApple Computerに初めて出合った頃のもろもろの思い出である。

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