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エッセイ・コラム

「何と言えばいいの?」鉢呂前経産大臣

都甲 昌利

 原発周辺の市町村を視察した鉢呂前経産大臣が「死の町」と表現して大臣就任9日で辞任した。新大臣が前大臣になってしまった。「死の町」という言葉は鉢呂氏の率直な言葉ではなかったか。まるで映画のセットのように整然と並んだ美しい家並み、商店があり郵便局もある。町の人々が生き生きと生活していた場所だ。それが3月11日以後、人も動物も生きているものが居なくなってしまったのだ。ひっそりと静まり返っている町を見て鉢呂氏は思わず「死の町」と思ったに違いない。「死に灰」によって「死の町」になった。死が重苦しくのしかかる。私だってそう呟いただろう。しかし、無名の者と政治家とは同じ言葉でも受け取られ方がまるで違う。著名な学者や評論家が多数汚染地域の町村を視察したが、彼等は「人っ子ひとりいない町」、「ひっそりと静まり返った町」、「無人化した町」などと表現していた。

 最近気になるのは政治家の想像力の不足である。政治家こそ豊かな想像力を持たねばならない。放射能汚染は多くの人々から家族や故郷を奪った。避難所になんかに居たくないのだ。鉢呂氏はその心情が分からないのだ。

 かつて、「バカ野郎」、「貧乏人は麦を食え」と云った総理大臣が居たが、政治家は何時の時代でも表現力が乏しい。最近では自衛隊を「暴力装置」と云って辞任した官房長官、「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。 個別の事案についてはお答えを差し控えますと、これが良いんです。 わからなかったらこれを言う。で、後は法と証拠に基づいて適切にやっております。この二つなんです。まあ、何回使ったことか」などと発言し大臣を辞めた政治家がいる。私が腹が立つのは政治家が国民より高い目線でものを言う時である。民主主義は国民が政治家を選ぶ制度である。国民が主人なのだ。今は全く逆の現象が起きている。

 私は鉢呂氏を直接知らない。テレビ、新聞、雑誌などによると北海道大学の卒業、北海道選出の議員で元は社会党に属していたという。北大と云えばクラーク先生を擁し、内村鑑三や新渡戸稲造を生んだ偉大な大学だ。ここで鉢呂氏は何を学んだのか。この人を選出した選挙民はこのたびの失言はどう思っているのだろうか。選挙民の知的レベルは選んだ国会議員と同じレベルとよく言われるが、そう思いたくない。

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