作品の閲覧

エッセイ・コラム 随想

枯草のざわめき:朝の公園で

濱田 優(ゆたか)

 夜明け前にふと目覚めることが多くなった。
 たいがいすぐ二度寝するけれど、ときに眠気を捕まえ損ねることがある。そんなときは、枕元に置いた読みかけの本の続きを辿りながら眠気が戻るのを待つ。が、まれには目が冴えてその後一睡もできない日もある。熱帯夜が続いた先日の明け方も、寝苦しくて一向に瞼が重くならなかった。

 それで思い切って5時半に起き、久しぶりにカメラをぶら下げて朝の世田谷公園を散歩することにした。
 そこはうちから歩いて10分あまり。深い緑の中に1.1kmのジョギングコースを持つ、手頃な大きさの公園である。ちなみに世田谷公園と称しているのに、ここは世田谷駅、世田谷区役所、世田谷城址跡などがある世田谷区世田谷から遠く離れた区の北西端、目黒区との境界近くの池尻に位置している。
 昔、ぼくがまだ現役だった一時期、ほぼ毎朝ジョギングに通ったところで、ここにくると往時のことがいろいろ思い出されて懐かしい。

 小さいときから三日坊主と自他ともに認め、ジョギングも何回試みてもすぐ挫折したぼくが、そのとき走り続けられるようになったのは、ある医者が書いた本を読んで一寸したコツを覚えたからである。
 普段運動していない人が二、三百メートル走ると、足が疲れる前に先ず息苦しくなる。初心者が急に走りだすと体全体に酸素を漲らそうとして心肺がフル回転し、それですぐ息切れするという。三日坊主はここで脱落。循環系を制御するシステムが適切に機能して、酸素を必要とする部位に適量供給出来るようになれば軽いジョギングぐらいで息苦しくなることはない。

 そのコツを習得するためには、休み休みでもよい、走る距離は1キロメートルでもよい、とにかく半月ぐらいジョギングを続けることが肝要だ。すると、息づかいは楽になり、代わりにふくらはぎが張ってくる。あとは無理をして筋肉や関節を痛めないように注意しながら練習を続ければ、2、3ヶ月で病みつきになる。ここまでくればしめたもの、何かの事情で2、3日走らないと気持ちが悪くて落ち着かなくなる。
 単に、ジョギングを続けるコツはジョギングを続けること、と聞けば、時代遅れの精神論と思われよう。だが、そうではなく、筋肉や心肺機能の強化は一朝一夕には出来ないけれど、センサーを利かせて酸素の供給にメリハリをつけるコントロールはそれほど時間を要せずに体得出来ると説明されれば、理に適っているように思われ、説得力がある。そして実際に、その処方箋は少なくともぼくには効能あらたかだった。

 ぼくが公園デビューしたのは、ケヤキの枝先が芽吹き始めた早春の朝。サクラのころに最初の壁を越え、クルメ、オオムラサキ、サツキのツツジ類の花が咲き競う春から緑深まる初夏に掛けて、少しずつ走る距離を伸ばしていった。
 この公園はさほど広くはないのに多様な樹木が茂っている。ヒマラヤ杉の巨木が立ち並ぶ林に入ると夏なお涼しい。枝葉が密なシイや喬木のトウカエデの群生地帯は日が昇っても仄暗く、走り手には難所の登りがその先で待ち受けている。
 コースの所々にスタート地点からの距離表示があり、はじめはそればかり気になって周りの景色を楽しむゆとりはなかった。
 だが慣れてくると、豊かな植栽に加えて、ミニSLや本物のD51、タイムカプセル(2032年、区制施行100周年に開封)にプレイパークとユニークな施設や展示物を擁し、子どもから老人まで多くの人が楽しめる充実した公園であることがわかる。そう、後から知ったことだが、世田谷公園はせたがや百景のNO1に選ばれている名所なのだ。

 夏が過ぎて初秋になる頃には、5kmくらいは走れるようになり、気分はいっぱしのジョガー、うれしいことにダイエット効果も上がってきた。
 しかし、“好事魔多し”とはよくいったもので、初冬に入り朝の寒さが厳しくなったところで膝を痛めてしまった。ウオーミングアップの必要性はよくわかっていたのに、寒いと早く温まりたいので直ぐ走り出す。体の硬くなった中高年にはこれがいけない。ある朝通勤のとき、三軒茶屋駅で田園都市線の階段を降りようしたら激痛に襲われた。当時フットワークがものをいう営業の仕事で足を痛めてはどうしようもない。悔しいけれど8ヶ月続いた朝のジョギングは断念した。

 以降、孫を連れて昼間遊びに来ることはしばしばあるが、早朝の公園にはすっかりご無沙汰した。
 昔も今も、週日の早朝、集まるのはシルバー一色。だがここも、昔にくらべると女性の割合が多くなったように見受けられる。
 団塊の世代が定年を迎え、朝のジョギングに勤しむシニア層で混んでいるだろうと予想していたところ、意外にも以前とそれほど人数は増えていない。60過ぎの人たちの多くは、まだ働いているからなのか。それともジョギングは膝を痛めたりするリスクがあるから、ウオーキングが盛んになり、それなら近所で済むのでわざわざ大きな公園まで来るまでもないということなのか。

 ジョギングコースを走っている人はさほど多くないのに、6時半直前になると、公園の四方八方の木陰からまるで人が湧き出るように大勢のシルバーが噴水広場に集まって来る。その数、目の子勘定で150人くらい。ぼくが公園デビューした朝、この光景を目にしたときは近未来にタイムスリップしたのではないか、と思われ衝撃を受けた。やがて、ところどころに置かれたラジカセから元気の良い音楽が始まり、ラジオ体操がはじまる。

 十分間のラジオ体操の後は、朝の一時(ひととき)をさらに活用しようと、公園に残って太極拳に励んだり、コーラスを楽しんだりする人たちがいる。そうかと思うと、仲間が三々五々と群れ集ってただお喋りをするゆるい仲間もいる。

 ぼくがタイムカプセルの丘の上で公園風景の写真を撮っていると、老々男女数人が連れ立って上ってきた。仕切っているのは女性だ。手提げからタッパーに入れた煮物を出して仲間に振る舞っている。男どもはそれを頬張りながら、「こんなに手の込んだ芋煮は、うちでは食べさせてもらえない」などとお追従をいっていた。見ると、女性はほんのり色香を残している佳人、ピンクシルバーのマドンナだ。男どもは、家人にはウオーキングとラジオ体操をするために公園に行くと言って出てきたのだろう。

 つい羨ましげに眺めていたら、マドンナと目が合ってしまった。なぜかドキッとして目を伏せ、カメラをしまって公園を後にする。
 時刻は7時を過ぎ、街は駅に急ぐサラリーマンとOLが溢れる時間帯になっていた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧