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エッセイ・コラム 文学・言語

禁断の「衣通姫(そとおりひめ)伝説」

平尾 富男

 気宇壮大でありながら、人間臭い古代世界に遊ぶと心休まる想いがする。出雲の国で数日過ごし、『古事記』や『日本書紀』のふるさとの香りを嗅いだときの清々しさを今も忘れられない。西欧に目を向けても、古代ギリシャ神話に触れると、その神々の大らかで人間味にあふれた営みに思わず顔をほころばせてしまう。

 『古事記』中の「倭建(=日本武尊)(やまとたける)伝説」が一大英雄譚であり、現在の日本人もその名前と物語を知らない人はいない。ところが、同じ『古事記』中の一大恋愛叙事詩である「衣通姫(そとおりひめ)伝説」の方は、あまり知られていないのは何故だろう。一方が壮大な国造りの神々の物語であるのに対して、大和国家が形成された初期の天皇家の愛憎劇、それも人も神をも恐れぬ禁断(近親相姦)の物語を伝えたものだったからなのか?

 時は五世紀、第十九代・允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世。木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)という兄妹がいた。妹の軽大娘皇女は、大変に美しい女性で、その美しさが衣を通して顕われてしまうという意味を込めて、衣通姫(そとおりひめ)と呼ばれていた。子供は父ではなく母に属するものであると考えられていた当時、異母兄妹・弟姉であれば婚姻も認められていたが、同じ母を持つ「きょうだい」が情を交わすことは禁忌であった。しかし、木梨軽皇子は同母妹である軽大娘皇女に思慕し、やがてその思いを遂げてしまう。
 それだけではない。木梨軽皇子は次のような歌さえも胸を張って高らかに詠んでいるのだ。

 「小竹葉(ささのは)に 打つや霰(あられ)の たしだしに 率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば」

 意味は、「笹の葉にあられが打つように、世間が騒ぎ立てようと構うものですか。もうこうして愛しい人と結ばれてしまえば、刈り取られた薦(コモ)のように、なにがどう乱れようとも平気です」というのだから、日本の古代人の性に対する一途で天真爛漫な恋愛観の一端をのぞき見ることが出来る。*(刈薦とは、「乱れ」の枕言葉)

 二人の父親である允恭天皇が崩御すると、群臣は皆、近親相姦の前科のある長子の木梨軽皇子を嫌い弟の穴穂皇子(あなほのみこ)に従ってしまう。そして木梨軽皇子は四国に流され、穴穂皇子が安康天皇(あんこうてんのう)となる。残された妹の軽大娘皇女は兄が許されて戻る日を待つ身となるが、ついに待ちきれずに苦労して兄の許に会いに行く。暫しの再開を喜んだ二人も最後は自害して果て、この悲恋物語は終わる。近親者同士の禁断の愛が原因で皇位を継げなかった兄と、その兄の愛を求めてどこまでもついていく妹の悲恋物語なのだ。後の『源氏物語』の豪華絢爛宮廷不倫絵巻よりはずっと純情一途な恋物語である。

 実は、木梨軽皇子の弟である安康天皇も近親相姦をしていたと古事記にあるから驚きである。これは、安康天皇(=穴穂皇子)が仁徳天皇の皇子である大草香皇子(おおくさかのみこ)を誅殺し、その翌年にその妃を皇后に立てたというのだ。その皇后こそが安康天皇と同母姉である長田大娘皇女(ながたのおほいらつめのみこ)という記述があるからである。(但し、「日本書紀」では異なった記述になっていて近親相姦の関係ではない。)

 これに比べれば、「衣通姫伝説」の相思相愛の兄妹の方がよほど純心ではないだろうか。木梨軽皇子が、軽大娘皇女の美しさに相応しい優雅で人望の厚い皇子であったが故に、かえって周囲からの妬みを買ってしまったと思えてならない。

(了)

(2011.08.03)

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