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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

蛍雪の功

金京 法一

 70年代のロンドンはどこも暗かった。街路灯は霧対策もあってオレンジ色で薄暗く、地下鉄の駅や車内も蛍光灯ではないため、節電対策中の東京の地下鉄より暗かった。住宅街でも門灯をつける家はわずかで、一軒の家で灯りのついている窓は一つか二つである。薄暗い地下鉄の中で、辞書みたいに小さな字の本を読みふけるイギリス人を見て、よほど目がいいんだろうと感心したものである。

 このころイギリスの社会情勢は戦後最悪期の一つではなかったかと思う。労働党政権の末期で、生活難からストライキが頻発し、学校教師や公務員は言うに及ばず、消防夫もストをやり、警官までスト権を打ち出すなどひどいものであった。冬のロンドンでは午後3時ともなると薄暗くなりだし、4時を過ぎるとかなりの暗さである。この時刻を見計らったように停電が始まる。当時貿易商社にとって本店とのテレックス交信は神経中枢の働きみたいなもので,それが不通になってしまうと本当に痛い。テレックスオペレーターは徹夜覚悟でスト解除を待ち、我々は窓の薄明りを頼りに原稿を書く。それでも4時半ともなると真っ暗になってお手上げである。奇妙なことに気がついた。同じ部屋で執務するイギリス人スタッフは平然と原稿を書いている。暗闇の中でもわずかな窓の明かりで字が見えるらしい。日頃やや唯我独尊的で、気に食わないこともあったイギリス人スタッフであったが、この時ばかりは彼らの蛍雪の功に助けられたと思う。

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