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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

『伝説のマエストロたち』

大平 忠

 今から5年前ぐらいになろうか、久しぶりに神保町の古本屋街をぶらつき、くたびれたので、横町に入って喫茶店「ラドリオ」を探した。10年に1度ぐらい、たまに行く店である。以前と同じ場所に、同じ店構えでやっていた。  ドアを開けると、「大平ではないか」と声がした。見ると、高校時代の友人I君が一人で座っている。I君とは1年に1,2度ゴルフをやったり酒を飲んだりする仲ではあるが、こんなところで会おうとは思いもしなかった。話を聞いたら、「ラドリオ」には高校時代からときどき来ているというので驚いた。この店にはタンゴを聴きに50年間ずっと通っていたのだと言う。あるとき、店がオーディオの装置を新しいものと入れ替えたときには、年代物の大きな木のスピーカーを貰い受け、滝野川の家まで小型トラックで運んだのだそうだ。常連なのでI君に譲ってくれたらしい。そのスピーカーを家でよく眺めたら、角のところに油が沁み込んでいる。何故だろうと考えたら、音を聴いているお客がもたれていたらしい。頭の髪の毛から、長い年月の間に油が沁み込んだものだと気がついたという。神田古本屋街でI君の知られざる一面に出会った。奇遇であった。

 昨年の夏である。アルゼンチン映画『伝説のマエストロたち』というタンゴ好きにはこたえられない映画がやってきたのを知った。I君に電話をした。
「知っているか」と言ったら、I君はそのとき熱い夏を避けて札幌にいたが、「見た見た、素晴らしい映画だった」とのこと。「君も是非見ろ」と勧められた。しかし、残念ながらいつの間にか見そびれてしまった。やはり、I君ほどのタンゴに対する情熱が乏しかったというべきか。丁度その頃、本欄で平尾さんが『伝説のマエストロたち』を見て陶酔し幸せな気分になったというボルテージの高い映画鑑賞記『「コロン劇場」での世紀のコンサート』を書かれた。それを読んだので、ますます見損ねたのを悔いる気分がずっと残っていた。

 一昨日、高校の同窓会があった。I君とも会った。タンゴ好きが昂じてついにアルゼンチンの本場に行った話を聞いた。そのとき、「ところで、あの映画を見たか」と聞かれた。「いやまだ見ていない」と答えて、胸がチクリと痛んだ。
「それでは、向こうで仕入れたDVDをやるよ、スペイン語だけで字幕なしだぞ」

 そのDVD『CAFE DE LOS MAESTROS』が今日送られてきた。さっそく見た。映画館での迫力には及ばないかもしれないが、陶酔し幸せな気分になった。その気分のままこの一文を書いた。持つべきものは友達である。

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