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エッセイ・コラム 随想

災害地の子どもたち

濱田 優(ゆたか)

 災害発生当初は、テレビのどのチャンネルも地震と津波による被害の惨状を伝える映像一色だった。だが一週間も経つと、レポーターが現地に入り、被災地の人々の厳しい避難生活を多角的に追う番組が増えてきた。

 その中で特に印象深かったのは、不自由な避難所で不安にかられている大人たちのかたわらで、なお元気にしている子どもたちの笑顔である。彼らも多くは余震の度に震え上り、海を見ると恐怖にとらわれるなどの心の傷を負っている。そうした痛みを抱えながらも、新たな状況に適応して生き抜こうと頑張っている子どもたちのバイタリティーあふれる姿に心打たれた。
 彼らはメディアが選んだ特別ないい子なのか。そうではあるまい。子どもには本来新しい電池のように活力が充満しており、消耗しても回復も早いのではないだろうか。私の戦災体験を省みてもそんな思いがする。

 疎開しないで東京に残った私は、小学2年生のとき赤坂で1945年5月25日夜の東京大空襲に遭った。雨霰と降る焼夷弾の中、両親と離れ離れになり、近所の小母さんと紅蓮の炎を上げて燃える街中を逃げまどった体験は今も忘れられない。そのとき目の当たりにした火の海の地獄絵は私の記憶に焼き付いていて、今回の震災でも火災のシーンがテレビに映るとフラッシュバックしてよみがえる。
 空襲警報のサイレンが鳴り止まぬうちに、次から次へと爆音を立てて飛来する無数のB29は、邪悪な意志を持つ怪鳥の群れに思え本当に怖かった。戦争が終ってからもしばらくは、飛行機を見ると襲撃されるではないかという不安が拭えなかった。
 さらに、近くの寺で戦災の犠牲者になった方々の遺体を焼くときの臭いが鼻について、相当長い間焼き魚が食べられなかった。

 こうした数々の後遺症を抱えながら、しかし子どもは生命力のかたまりだ。私は、遠くの避難所から歩いて丸焼けになったわが家の焼け跡に通い、片付を手伝うとともに、友だちと焼け野原の瓦礫の山を走り回ったり、防空壕跡や地下室を好奇心にかられて探検したりして夢中になって遊んだ。
 ほどなく8月15日を迎え、敗戦を伝える玉音放送に大人たちは呆然の体であった。が、私はというと、これで空襲の心配がなくなると安堵感の方が勝っていたような気がする。

 戦災を逃れたあとも、日本は壊滅的な状態で世にいう敗戦直後の悲惨な生活を体験した。なのに、正直にいって当時の私は惨めと感じたことはあまりない。私はよほど鈍感なのか、世間に伝わる話と私の実感の隔たりが大きいので自分の本心を口にすることを控えた時期もある。

 しかし、大きくなり同世代の友人と昔話をするようになると、みな生きることに必死で大変な時代だったけれど、活気のあった日々で懐かしい、という。
 省みるに、物心がついた戦争末期にはすでに物資が極度に不足していた。私たちは古き良き時代を知らないのだ。大人がまずいという乾燥バナナだって、生のバナナを知らない私には甘くておいしい。「すいとん」などの代用食やオカラやダイコンを混ぜて増やしたご飯も本物を知らなければ、空腹を満たしてくれる食事だ。
 皮肉なことに悪い時代に生まれたことが、子どもの柔軟な適応力と相まって戦後の混乱期に苦を苦としないで育つことが出来たといえるのではないか。
 もちろん家族を守るための親の苦労は大変なもので、なりふり構わず、食糧調達のために遠くの農村まで満員の列車に乗って買出しに行った。

 こうした戦災体験を持つ私だから、全てを失った震災の跡地から再スタートする子どもたちの映像を見ると他人事とは思えない。大人たちが思う以上の活力を発揮して力強く育って欲しいと心から願っている。

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