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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

化けて出ろ

三春

 四十年来の旧友が逝った。研修旅行で私が熱海にいたその夜のことだった。彼女は屋久島の出身で、私と同じく小さなロシア語翻訳会社を独りで切盛りしていた。二年前から難病指定の間質性肺炎を患っており、正月にインフルエンザから肺炎を併発したことが引金になった。あっけない死だった。

 恋人と一緒に我が家に泊まりにきたこともあったが、結局ずっと独身で通した。折れそうな細い身体に気骨だけは人一倍で自立心旺盛だった。さすがに一年前からは、体力に不安と限界を感じたのか、姉のもとで暮らしていた。姉一家の住まいは江古田の氷川神社の社務所で、境内には銀杏の古木がそびえている。秋には銀杏を、暮れには屋久島の銘酒「三岳」をもらったものだ。家庭の温かみに浸ったのも束の間、まだ死ねないと悔しがり、地団太を踏むようにして逝ったという。

 彼女の名は里里(りり)。Lilyと呼ばれると「やめてよ、寅さんじゃあるまいし、そんな安っぽい呼び方!」と怒りだす。百合のように純粋で潔癖な割には、いつも辛口の冗談を飛ばすところが愛らしかった。利を追わず、翻訳者たちを搾取せず、赤貧を苦ともせず、食を削ってでも絵具やキャンバスを買って趣味の油彩に情熱を傾けるような人だった。最近は、病状を気遣う翻訳者たちが、彼女に負担がかかるような仕事をすべて引き受け、マージンだけを渡すような体制をとっていたらしい。

 その翻訳者たちに乞われて、彼女の顧客を私が引き継ぐことになったが、結果的に彼女の仕事を盗るようで少し気が咎める。血相変えて現れてくれるかと、「お客盗っちゃうよ、Lily?」と呟いてみたが、未だに化けて出てこない。四十年前に彼女と出会って以来のあれこれが思い出され、不思議な因縁を感じてしまう。

 あれからちょうど二か月、東日本大震災を知らずに済んだことだけはせめてもの慰めだ。氷川神社は中野区で最古の歴史ある神社で、この震災によって鳥居は崩壊し、社務所も半壊したそうだ。

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