作品の閲覧

エッセイ・コラム 体験記・紀行文

東北・関東大震災

渡里 清

 この十日あまり、毎日テレビのニュースを見て過ごした。どのテレビ局もどの新聞も東北の地震と津波の作り出す廃墟の模様を報じている。毎日呆けたように見ていた。

 三月十一日二時四十六分ごろ横浜の家にいたとき大きな地震が来て庭に飛び出した。落ち着いてからテレビをつけると東北はもっと凄い。三年前までの十年間、石巻にある石巻専修大学に勤めていて、その間に東北の海岸や美しい港の街に出かけた。その景色が見たことのない大津波に洗い流されている。仙台の飛行場や海岸に向かった若林区、遠洋漁業の基地気仙沼や塩釜、歴史と観光の松島、漁業の南三陸や女川、気仙沼、大船渡、宮古などなど懐かしい街が一挙に廃墟になっていく。特に南三陸の美しい湾を見晴らすホテル観洋は、毎年四月に新入生教育をやっていた場所で、そこから見た志津川の景色は思い出のところだ。

 テレビも新聞も地図に町の名前を出して報道している。しかし三日たっても四日たっても「石巻」が抜けている。地図にも記載がない。取材の人が入れないぐらい被害が大きいのかと心配になった。そこで4日目にテレビ会社に電話したがビジーだ。翌日もかからない。新聞の番組欄をみてBS局に電話して「石巻は仙台に次ぐ宮城県第二の都市で、全国から学生が集まる大学もある。家族も友達も心配しているだろうに何故報道も地図も出ないのか?同系統の局に伝えてくれ」と言ったが、局が違うから駄目だとあっさり断られた。

 石巻どころか仙台にも電話も携帯も通じないので、東京にいる人たちに電話して様子を聞いた。一週間後にやっと仙台の元同僚に電話が通じた。幸いにも大学には津波は到達していないので避難所になっている。校庭は航空自衛隊のヘリコプターやトラックの基地に使われていることが分かった。教職員達は家が水没しても、誰も亡くなってはいないことが分かった。ゼミの学生も家は失ったが身体だけは大丈夫。東京に出張していた卒業性の女性は、石巻の隣の女川出身でと、もかく家に帰るという。家や車が流されたろうからとも言う。無理のないようにといった。

 続く春分の日の連休は、物不足の中の買い物、ガソリン不足の行列、昼間でも暗い計画停電、気味悪い頻繁な余震、福島の原子力発電所の事故、寒い雨の日が重なって、気の重い連休となった。

 連休が終わって大学の職員に電話がつながった。津波は避けられたが地震のために学内は大混乱。たとえば図書館は棚から落ちた本などで足の踏み場もない。これを片付けるだけでも四月一杯はかかる。大学は五月開講になるとのこと。街は目茶めちゃ。市立病院や文化センターなどは津波で押し流された。地面が下がって満潮時には地面が水没する。街の道路は流された家具や家のがれきや車の山。それを片側に寄せて車一台がやっと通れる状態だそうだ。浜脇小学校は流れてきた車の山の油で火災が発生し、三日間燃えて全焼したそうだ。とにかく物が届かない。一日一食でみんな頑張っている。痩せるだろうとのこと。

 東京から女川の自宅を見に帰った教え子に電話してみると、なんと今長野にいる。女川は完全に壊滅とのこと。一メートル以上地面が沈下していて海水に浸かっている。東京からは友人と車でやっと帰れた。幸いにも自宅と自動車は津波の被害は免れたので自宅に二泊した。しかしその集落は二百戸のうち八十戸が水没・流失を免れたが殆どは住めぬ状態になった。そこで何が起こっているかというと人心の荒廃である。窃盗や盗難は当たり前。殺人も三件あったし、包丁を持って歩く人も出てくる始末。電線に人がぶら下がっている状態だった。家も無くなり、親戚や知人のある人は他府県でも出て行っている。いつ乗れるか分からない数少ない高速バスの予約をして、三日待ってようやく脱出できた人もいる。そんな状態なので自分はその土地には住めないと思い、家を知人に住まわせて長野に働く息子のところに二日前にたどり着いたところだという。朝起きてみると家の庭には煙草の吸殻がいっぱい落ちていた。あんな状態では怖くて住む気にならないという。

 テレビや新聞の報道では知りえない状態だ。報道の目と実体験の違いを痛切に感じた。石巻の実態はテレビでは最初の一週間はわからなかった。

 我々の年代は、技術を開発し設備投資で生活のレベルを上げ、戦争で失わないようにすれば平和で便利で進んだ社会が作れると信じてきたが、それが完全に打ち消された。自然の力の怖さを見せつけられた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧