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エッセイ・コラム 文学・言語

『ノルウエイの森』を読んだ、観た。

都甲 昌利

 20年以上も前、村上春樹の小説『ノルウエイの森』を贈ってくれたのは大学の同窓生で、出版社の編集長だった友人であった。まだ、航空会社勤めをしていた私は小説など読む暇はなかったが、書き出しが「僕は37歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機は降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。
 天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。ビートルズの『ノルウエイの森』だった」という書き出しの文章がなにか自分の経験と重なって、面白そうだと思い読み始めた。ところが、「僕」は別れ際のドイツ人スチュワーデスとの会話がきっかけとなり、物語は18年前の1969年の20歳の「僕」の追憶に代わってゆく。亡くなった親友の恋人(やがて精神を病むことになるが)との関係を通し、主人公の青年の愛と性、生と死を叙情的に綴ってものだが、一気に読んでしまった。村上氏は激しくて、「物静かで、悲しい恋愛小説」と云っている。
 読み終えた時、私は自分の青春時代と比較して少し違和感を覚えたことを記憶している。私にはそれほど激しい恋ななかったということか。

 今年になりこの小説が映画化され一大ブームを引き起こした。丸善や紀伊国屋書店には文庫になった『ノルウエイの森(上・下)』が平積みされていた。映画の宣伝も派手だった。宣伝につられて観たくなった。
 20年も前に読んだので記憶が薄れていたので、映画を観る前にもういちどこの小説を読み返し、映画館へ行った。新宿の「バルト」。平日のためか、入りは7割程度。やはり、若者の二人連れが多かった。
 長編小説を2時間余りの映画にするのは少し無理があるというのが感想だった。セックス描写にしても、小説の文字からの方がグッと伝わってくる。村上春樹の筆力はすごい。だが、映画が良いのは美しい映像だ。カメラワークは小説では表現できない。小説では主人公の恋人が精神の病で入っている療養所は京都の郊外にある。撮影場所はどこか知らないが、人里離れた静かな森や草原は美しい映像で描かれていた。
 もうひとつは音楽だ。耳から入る音声。『ノルウエイの森は』はロックの新しい時代の扉を開けた驚異的は音楽だったのだ。これが大音響の可能な映画館のスピーカーからガンガン響いてくる。これは小説では不可能だ。村上春樹の小説には音楽がたびたび出てくる。 『1Q84』には、青豆が高速道路を走るタクシーの中で聴くヤナーチェックの「シンフォニエッタ」だ。また、ノモンハン事件を扱った『ねじまき鳥クロニクル』ではロッシーニの歌劇「泥棒かささぎ」である。実にうまく音楽を小説の中で使用している。
 最近ロシアでは村上文学が読まれているという。今や世界的文学といえそうだ。私は彼の作品をこれからも読み続けたいと思っている。

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