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エッセイ・コラム 日常生活雑感

にしん蕎麦

三春

 食材の多くが、干すことによって栄養価と旨味を増すことはよく知られている。
 好奇心と倹約の両方の理由からこれまでいくつかの自家製干し物に挑戦してきた。野菜は薄切りにして、魚は塩水に浸けてからベランダで天日干しにする。魚といってもせいぜい鯵の一夜干し。カチカチの身欠き鰊にはとても手が出ないが、あれも生よりは味が深くてレシピも豊富である。

 さて、美味しいものに出会うと、自分にも作れないかと試行錯誤するのも楽しみの一つだ。会津で鰊の山椒漬けを酒の肴に注文した時もしかり。作り方を調べると、身欠き鰊を山椒で覆い尽くしながら交互に重ねていくには大量の葉が必要である。まずは山椒の苗を植えたが成長を待ってなんぞいられない。毎日キョロキョロしながら歩いていたら……、町内の天理教の庭に立派なのが! 草木も眠る丑三つ時、帽子を目深にかぶりマスクと軍手を装着した黒づくめの女あらわる。寝込みを襲われた山椒はあっけなく百枚ほど摘みとられたのだった。バチが当たるかと思いきや、これが上々の出来栄え!
 鰊にはもう一つ懐かしい思い出がある。修学旅行で内緒食いしたにしん蕎麦だ。京都には蕎麦と魚を取り合わせた一見ミスマッチな美味があると聞き、夜間の外出許可範囲を越えて南座近くの「松葉」まで忍んで行った。薄味のつゆに泳ぐ麺、ほろほろの鰊と京ネギ。禁を破って得た京の味は格別だ。松葉の二代目が明治年間に考案したという。しめ鯖といい身欠き鰊といい、海のない土地は塩漬けや干物を本来の味以上に生かす知恵と技に優れている。
 以来、見かける度に必ず注文するほどの好物だが、東京では滅多にお目にかかれなかった。それが十年ほど前に湯島天神の裏で「にしん蕎麦」と掲げた小さな蕎麦屋を見つけたのだ。聞けばこの「やぐ羅」も本店は京都南座の辺り。「松葉」の感動には及ばないが、嬉しくなってレジ脇に置かれた鰊の具材も買い求めた。説明書片手に自宅で再現し、「よ~し、次は一から自分で」と決めた。

 身欠き鰊を米のとぎ汁に一晩つけてからじっくりと柔らかく煮込む……ゆるりとした時間とほんわりした期待が家じゅうに拡がる……「三春庵」特製のにしん蕎麦だ。

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