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エッセイ・コラム 日常生活雑感

クマが出た!

平尾 富男

 人がクマに襲われたとテレビのニュースが告げている。秋になると、各地で人里にクマが出没するようになって久しい。今年は昨年の20倍の被害が報告されており、田畑を荒らすだけでなく、頻繁に人を襲って怪我をさせたり、最悪の場合は殺めたりする事件さえ起こっている。
 冬眠前に、体内に蓄えて置かねばならない好物のドングリなどの食物が極端に不足しているのが原因だ。数年前の友人の体験談を思い出した。

 技術者だった友人は、長年の海外駐在も経験し、十年前に大企業を勤め上げて定年を迎えた。都内に住む娘夫婦のところに同居するようになって一年、ふとしたきっかけで農作業に打ち込んで見ようという気持ちになった。たまたま空き家となっていた古い農家を借り上げ、一月の半分以上も過ごすことになったのが群馬県の月夜野である。

 畑にはときどきサル、タヌキ、イノシシが出て農作物を荒らすと言う地元の人の話を面白そうに家族に話した。猛反対する家族には、これが古来日本の里山の自然な姿だと、言い放っての決心だった。
 家にはテレビも電話もなければ、新聞の配達もない。その上友人は大のパソコン嫌い、まして携帯電話やデジカメなどにはまるで縁がない。近代文明の利器は何一つない生活だと豪語する。典型的なシティー・ガールだった奥さんは、さすがにこれだけはご亭主に付き合いきれないから、未だに一度も月夜野を訪れていない。

「クマが出ましたので注意、注意!」と、役場の防災無線が警告するのを聞いた翌日、収穫直前の友人のトウモロコシ畑は全滅となる。一夜の出来事だった。友人は早速役場の農政課へ行き、被害の報告と同時に今後の対策を尋ねた。担当者は、昨年の天候不順が原因で山ではドングリが不作だから、今年はクマが里へ出没する頻度が高くなっているのだと説明する。

「そうですか、それじゃ奴等も食糧難で可哀そうだということですか」
「そうなんですよ」
「駆除しているんですか」
「しています」
「悔しいからその肉を喰ってみたいんだけど、どこかの肉屋で買うとか、食堂で食べられますかねぇ」
「いや、売っていません。獲った人が仲間内で食べているようですけど」

 隣の村でキノコを採っていた人がクマに頭をやられたとか、近所の家ではアヒルをかなりやられてしまったと言いながら、「ここでの晴耕雨読の生活はスリル満点で飽きない」とのたまう。

 こんな友人でも、たまに車でコンビニに行っては、週刊誌のグラビアを覗いたりすると告白する。そして、二週間もすると、十年来の愛車ベンツを駆って奥さんと娘さん夫婦のいる東京に戻ってくる。口では仙人を気取っているけれども、会社務めのころには人一倍先端的な生き方を追求していたシティー・ボーイの片鱗を覗かせる友人なのだ。

 今年のクマ騒動を期に、友人は来年以降の田舎暮らしを止めると宣言した。実際は、年齢による体力の衰えから農作業がきつくなっているのが本音だと、奥さんがそっと耳打ちしてくれた。

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