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エッセイ・コラム 体験記・紀行文

沖縄旅行

都甲 昌利

 普天間の基地問題で揺れている沖縄に行ってきた。沖縄は本当に悲劇の島だ。14世紀頃、琉球王国として栄えていたが、16世紀に薩摩藩に侵略され、明治維新後は日本のものとなった。琉球王国は元来武器を持たない民族で、政治・外交は交易などを通じて中国、日本、東南アジアの国々と平和裏に交流してきたという。首里城に“守礼の門”があるが、これは徳礼を用いて政事を行うという意思表示だそうだ。薩摩藩は武器を持ってやって来たので一日で占領された。漆器、陶器、染め織物など文化財を持って行かれた。沖縄人の薩摩に対する敵意はいまだに残っているということだ。
 日本の領土となっても悲劇は続く。太平洋戦争末期の1945年6月、米軍の猛烈な艦砲射撃の後、米軍が上陸、本土防衛の盾になり、日本で唯一地上戦が行われ、日本兵・民間人約20万人の犠牲者を出した。米国の占領が続き、1972年に日本復帰を果たしたにも拘らず、米国に基地を提供しなければならなかった。
 日本の0.8パーセントしか占めない沖縄の地に、日本にある米軍基地の75パーセントが押しつけられているという。米兵による婦女暴行が続く中、沖縄国際大学の校舎に米軍のヘリコプターが墜落しことで、沖縄以外に基地を移設する案が浮上し一躍マスコミの脚光を浴びた。しかし、他の県はみな嫌だと拒否をしている。沖縄は本土の犠牲となっていると言ってよい。

 タクシーに乗り先ず首里城へ向かった。沖縄戦で日本軍の司令部になった場所だ。首里城は今は朱塗りの美しい城であるが、当時は米軍の艦砲射撃を受けて瓦礫と化していたという。那覇市で一番高いところに建つ首里城から宜野湾の海岸が見える。案内してくれた沖縄の人の話では「あの海岸に米軍の艦隊がまっ黒になって一面、海を覆い尽くしていた」そうだ。日本軍は城の下に地下壕を掘り総司令部を置いた。今でも洞窟がところどころに見られ、弾痕のあとが確認できる。観光客が大勢訪れていたが、この地下壕のあとを熱心に見る者はいない。

 米軍が上陸し激しい戦闘が行われ、総司令官の牛島中将以下の将兵は南へと退却する。しかし、ここで待っていたのは、ひめゆり部隊の悲劇である。
 今まで一般公開がなされていなかった旧沖縄陸軍病院南風原壕20号を訪れた。病院といっても横穴壕である。米軍の艦砲射撃が始まると陸軍病院はこの壕へと移った。20号は長さ約70m、高さ約1.8m、幅約2mで見学者はヘルメット着用と懐中電灯を持たされる。内部には古ぼけた医薬品類、患者のものと思われる身の回り品、発掘された人骨など当時が如何に悲惨であったかを想像させる物ばかりだ。この狭い病院に軍医、看護婦、衛生兵らに加えて、ひめゆり部隊といわれた沖縄女子師範学校と県立第一高等女学校の生徒222人が看護補助要員として動員された。

「切り落とせし兵の足をば埋めに行く、女子学生ら唇(くち)噛み駆ける」(長田紀春)

 若し戦争さえなかったら、彼女らは普通の女の子として恋人を持ち、美しい青い珊瑚礁の海を見ながら、或いはハイビスカスや蘭の花に囲まれて、恋を語らい将来を夢見たことだろうと思うと胸が痛む。帰京して渋谷や原宿竹下通りを散策した。けばけばしい様々な衣装で青春を謳歌している少女達を見ていると、せめて、ひめゆりの少女達にもこういう体験をしてもらいたかったと思う。人生は時代と場所によりこんなにも格差があるものだと改めて思った。

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