作品の閲覧

エッセイ・コラム 体験記・紀行文

もうお月さんは煙くない

浜田 道雄

 四十数年ぶりに訪れた福岡で、ぜひ行かなければならないところがあった。福岡から筑豊へ行くのに、越えねばならない八木山峠である。
 1960年代のはじめ、福岡は混乱のさなかにあった。筑豊では多くの炭鉱が閉山して、地域経済が破滅された街には失業者があふれて、その眼に余る惨状は土門拳の写真集「筑豊の子どもたち」によって人々に知らされ、強い衝撃を与えた。また、三井三池炭鉱では炭鉱合理化を巡って会社側と二つの労働組合との闘争が過激化して、犠牲者を出すまでになっていた。
 1963年初夏、私はそんな福岡県に転勤し、炭鉱離職者の再就職支援を仕事とした。週に2、3回は筑豊に飛んで、各地の職業安定所を走り回り、再就職対策を指導し、督励して歩く。その行き帰り、私はいつも八木山峠に車を止めて、眼下に広がる筑豊平野を眺めた。それが私の日常の仕事だった。
 あの八木山からの風景を再び眺め、筑豊のその後の変化をこの眼で見、今日の繁栄を確かめたかったのである。

 八木山までの道は立派に整備され、交通量も増えている。が、峠の茶屋は廃屋だった。
 峠に立って、眼下に広がる筑豊平野を眺めた。半世紀前、八木山から眺める風景は、すべてがくすんだ山野と町並みだった。ピラミッド型の裸のボタ山があちこちに林立していて、「あれが日鉄二瀬。あっちが三菱鯰田」と数えられた。

 だがいま峠の見晴らし台からはボタ山の姿はほとんど見られない。わずかに遠く飯塚の山野鉱のそれが春霞に煙って見分けられるだけだ。代わりに豊かな田園と都市が広がっていた。山野は三月の緑に包まれ、田畑は菜の花の黄色に染まって、にぎやかな町並みが続いている。

 さらに田川まで足を伸ばして、石炭記念館を訪れた。が、そこにも石炭産業華やかな時代を誇る展示は多く見られても、あの失業者のあふれ、荒廃した時代をしのぶものはほとんどない。多くの事故や悲劇を乗り越えて、筑豊は復活したのだ。私はそれを実感した。

 私は記念館を出て、構内に残された三井田川鉱の二本の煙突を見上げた。あの炭鉱節で「さぞやお月さん煙たかろ」と歌われた煙突である。筑豊を走り回った日々、何回この煙突を見上げ、その下で多くの人々とどれだけ長く筑豊の再生と振興策を論じ合ったことか。

 復興を遂げた筑豊を祝福する弾んだ気持ちと、忘れられて行く悲惨な時代の記憶を惜しむ寂しさとのない交ぜになったなかで、私はちょうど夕暮れ近い空を煙突近くまで昇った十日あまりの月に向かって語りかけた。
「お月さん、これでよかっちゃろうね。炭鉱ばのうなって、もう煙くはなかけん」

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧