作品の閲覧

「800字文学館」

喪中の葉書

大森 海太

 毎年暮れになると喪中の葉書が届く。今年も10数通いただいたが、亡くなった方のほとんどが90歳以上であり、すなわち我々と同年代の方が、父親または母親の逝去のため年末年始の挨拶を失礼するというものであった。コロナのせいで葬式もごく内輪で済ませたのか、93歳の伯母や92歳の叔母が亡くなったことを、いとこ達からの喪中葉書で知らされたのには驚いた。
 いずれにせよその分だけ年賀状を出さなくて済むのは助かるが、それはともかく、思うのは日本人とくに女性の寿命が伸びたこと、そうは言っても親たちの世代が次々に鬼籍に入り、気がついてみれば今度は我々の世代に順番がまわってくるということである。
 いつぞやも書いたのだが、人生90年として野球に例えれば、早くも8回の裏に入ったところで、果たして9回裏までもつかどうか、場合によっては延長戦に持ち込めるか、どの道そう遠い先のことでもあるまい。

 この世が始まって以来、いまだかつて死ななかった人はいないので、いずれあちらのほうからお迎えが来るのだろうと思うが、出来れば楽に逝きたいものである。大体死ぬことってどんなことだろう。「死」ということは人類永遠のテーマであって、キリスト教でもイスラム、ヒンズー、仏教でも、またそれぞれの会派によっても、哲学的な思索から、天国と地獄、極楽浄土、あるいはメルヘンチックなものまで、様々に語られてきた。とは言っても、死んだ人の体験に基づくものではないので、本当のところはよく分からない。たまに「臨死体験」などというもっともらしいことを書いたものがあるが、怪しいものだ。新聞の広告などで、元知事の爺さんや元作家の婆さんたちが悟ったようなことを本にしているのを見るが、買う気にもならない。

 他人の葬式が終わって街に出ると、いつもと変わらぬ人と車の流れ、何事もなかったかのような普段の生活。私のときも、まあそんなものだろう。コロナで外に出られず、喪中の葉書を見ながらそんなことを考える。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧