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「800字文学館」

乗り物の表情

内藤 真理子

 四十年くらい前の話だが、実家に行く時に久我山と三鷹を結ぶ路線バスを使っていた。全行程が片側一車線で交通量がそこそこあり、多くの乗客は頻繁に乗降していた。運転手にとっては気の抜けない運転環境だったと思う。
 だがそのバスに乗るといつも、何故かのんびりと子守歌でも聞こえそうな、バス自体が乗客を優しく包んでくれているような不思議な気持ちになるのだ。
 私と同じように思った人が沢山いたのだろう、感謝の手紙が多く寄せられ表彰されたそうで、その時の写真が張り出されていた。
 その後バスは最新式の車体に代わり、運転手は以前と同様に丁寧な運転なのに、もうあの感触は味わえなくなった。オートマチックになり、ギアが乗客に語り掛ける回数が減ったからだろうか?

 話は変わり、ドライブ旅行で、伊良湖から鳥羽までフェリーに乗ったことがある。見晴るかす伊勢湾には大小の船が何隻も見えた。中に、大漁旗をたなびかせ、猛スピードで波を蹴立てて走る漁船がいた。
 晴れ渡った空、きらきら光る海で、その船は
「さあ行くぞ、今日は大漁に間違げえない!突っ走れ」と、遠目に見える船自体が雄弁に語っていて、思わず
「頑張れ!」と、こちらも旅のテンションが上がったのを覚えている。
 乗り物には乗り手の表情が乗り移るようだ。

 車好き、ドライブ好きの私は、伊勢湾の漁船のような運転も好きだったが、近頃は大分くたびれて遠出をすることも滅多になく、たまに行くのはまとめ買いをする為のスーパーまでがせいぜいである。
 そこに行くには線路を挟んで、狭い商店街を通らなければならない。駅の近くは人や自転車が入り乱れ、なかなか前に進めない。商店街を過ぎても歩道を確保するための杭が何か所もあり、通るたびに向かい合ったどちらかの車がその手前で待機することになる。
 今では、我がマニュアル車の表情は、
「お先にどうぞ、ゆっくりお待ちしています」と、ギアを変えるたびに対向車や道行く人に語り掛けているようだ。

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