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「800字文学館」

吉原今昔

児玉 寛嗣

 古典落語に吉原を舞台にした数々の郭噺がある。吉原は江戸の初期に散在していた妓楼を人形町辺りに一箇所に集めて花街としたのが起りだ。その後、今の場所(台東区千束)に移された。郭がひしめき合い、享保年間には約2100人の遊女がいた。ソープランドのようなものだけでなく、お忍びの大名や豪商も通う高給クラブ風の店もあった。遊女は親の借金払いなどのため、郭の主人から金を借り引き換えに年季奉公という形で身請けされ、主人の絶対的な支配権に服従するという形をとった。、逃亡を防ぐため街の周囲には堀が巡らされていた。
 明治以降もあまり変わらない形で続いた。それは昭和33年の売春防止令発令まで存続した。

 今、どうなっているかと行ってみた。東京メトロ・日比谷線の三ノ輪駅から浅草方面に10分ほど歩くと、柳の木、傍に「見返りの柳」という案内板がある。それによるとこの場所で客は遊女との別れを惜しんで楼閣を見上げて家路についたそうである。右にはいると吉原である。マンションやコンビニ、喫茶店などもあるが、ソープランドが林立している。新型コロナ感染防止対策なのかその扉は開け放たれていた。奥には脱ぎ捨てた花柄のサンダルや傘立てに女物の傘があった。「素人大歓迎・コンパニオン募集中」という張り紙も見受けられた。今では職業の選択は個人の自由だ。感染症婦人科の看板を掲げたクリニックもある。
 少し行くと吉原神社、各時代の吉原の地図が展示されている。隣には区立台東病院。かつて性病の遊女が入院していた病院だ。近代的な建物に「老人保健施設」の看板を掲げられている。さらに進むと観音様を祀った弁財天だ。関東大震災当時の新聞記事が展示してあった。それによるとそこは郭街のはずれで池だったようで、大火で焼け落ちた楼から逃げ出した遊女たちが飛び込み、500人近くが亡くなったとの事。遊女たちの哀れな運命に思いを馳せ、観音様に手を合わせると、向かいにある公園で遊ぶ子供たちの声が聞こえてきた。

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