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「800字文学館」

初夏の小さな旅

新田 由紀子

 電車に乗って出かけたい。外出自粛が明けてさっそく、東秩父都幾川の山寺慈光寺へ行くことにした。近くに都幾の湯という日帰り温泉もある。坂東観音霊場の古刹探訪と温泉入浴の小旅行だ。
 都幾川は奥武蔵から比企丘陵に続く山々から流れ出し、山間のときがわ町を横断して荒川に注ぐ。慈光寺は都幾川から天文台のある堂平山へ登るルートの入り口にある。去年この山域の大霧山に登ったとき、堂平山を経て慈光寺へ降りるコースがあると聞いて、いつか行こうと思っていた。

 東武線小川町駅からのバスは緑濃い山沿いを走る。川を挟み山に囲まれた集落で降りると、年月を経た木造建築の商家や古民家の交流施設、産業会館があって地域の観光拠点のようだ。参道は緑一色の山の方へ向かう。登るにつれて、女人堂、山門跡、石板碑や釈迦堂と次々に史跡が現れる。ところどころ旧参道が交差するが、この時期は草深くヘビや虫が怖い。
 山懐に忘れられたように息づく慈光寺は、唐僧鑑真の高弟釈道忠の開山になる名刹だ。本堂の木鐸を打つと、しばらくして奥からお出ましになったご住職は、御朱印帳携えた県外の越境者を丁寧に迎えてくれた。鳥の声が密やかに響いていた。

 上りのバスは当分来ない。ここはスマホGPSの出番。温泉へは川沿いに3.4キロと出た。陽は真上から照りつける。蛇行する流れに沿って日陰を伝って行くと、三波峡という景勝地を望む都幾の湯に着いた。入口で係員が得意そうに検温器をふりかざすが、全身汗まみれの客を見て、少し涼んでからと言ってくれる。顔を扇いでこっそり麦茶を額にあてて無事検温パス。露天風呂のなめらかな湯に身も心も解き放った。

 何も急ぐことはないのに、バスの時間を聞くと慌てるものだ。またも大汗で「せせらぎバスセンター」とやらへ急ぐ。三々五々、下校の生徒たちが挨拶してくれる。自宅から一時間半、見知らぬ町の異なる時間が流れている。そうだ、大事な事を忘れてきた。旅の締めくくりの湯上りの一杯だ。

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