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「800字文学館」

蛙の巣立ち

長尾 進一郎

 毎年春になると、実家の池でヒキガエルの卵が孵化する。今年は特に多くのおたまじゃくしが生まれた。晴れた日には岸辺に近づき、早く上陸したがっているように見える。やがて後足、前足と出る訳だが、孵化の時期に差があるのか、すでに蛙の姿に近いものから、まだ足の無いものまでバラエティーができる。育ち方に時間差を設けることで、一度に巣立つことのリスクを避ける自然の知恵ではなかろうか。

 蛙の姿になったものは念願の上陸を果たし、水際の石の上にかたまっている。蛙といっても体調わずか7、8ミリ程度、色もまだ真黒だ。おたまじゃくしの時より尻尾が無い分、余計に小さく見え、親のヒキガエルの貫禄に比べるといかにもひ弱である。
 蛙となってすぐに池から離れるのではなく、何日かは水際で待機している。池から旅立つのは、しとしとと小雨の降る日が多いようだ。今年の第一波は5月中旬だった。朝にはすでに池の周囲の地面に多数の蛙がたむろしている。まだ歩くのもよちよちで、頼りないことこの上ない。鳥やトカゲに襲われたらひとたまりもないだろう。立ち止まったり戻ったり、周囲を確かめながら時間をかけて草むらに散ってゆく。

 それにしても、巣立つ時のあのひ弱さでは、成長して大人の蛙にまでなれる数は僅かなのではなかろうか。そう考えると、一匹の親があれだけ多数の卵を産むのも合点がいく。親になるまでの生存率が低いほど、多くの個体を用意しておかねばならない道理だろう。
では池におたまじゃくしが何匹いたか、数えるなど不可能と思ったら、世の中には賢い人がいて、産卵された状態の透明な管の中の卵を数えたという。それによると管の10センチメートル当りに卵が74個あったそうだ。わが池に3メートルの管があったとすると、卵は二千個余りとなる。その半分の千匹が蛙となり巣立つとして、はたして何匹が無事に親の蛙となってくれるだろうか。これから先の追跡は困難だが、観察できる限り見守ってゆきたい。

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