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「800字文学館」

音楽家との握手

塚田 實

 会社でアメリカを担当していたとき、ニューヨークをよく訪れた。アメリカ企業との係争も多かったので、弁護士とも頻繁に付き合った。
 N弁護士と打ち合わせた後、日本食レストランで食事をした。食事が半ばを過ぎた頃、彼が聞いてきた。「パールマンを知っている?」。「知っているよ、イツァーク・パールマンでしょ。アベリー・フィッシャー・ホールで何回か観たよ。イスラエル生まれのユダヤ人で、若いとき小児麻痺を患った世界的ヴァイオリニストでしょ」。「彼がそこで食事をしている」。振り向くと、四人で楽しそうに食事をしている。「奇遇だな。一寸挨拶してくる。良いかな?」。「良いんじゃない」。私は失礼も顧みず、つかつかと歩み寄った。「パールマンさんですね。こんなところでお会いできて幸せです」。パールマンさんは見つかってしまったか、という風に困ったような顔をしたが、後は直ぐ笑顔で応対してくれた。「サインをお願いして良いですか」と手帳を渡した。彼は喜んでサインしてくれた。「サンキュウ」と手を出すと、にこやかに握りかえしてくれた。印象的だったのは、その手の柔らかさだった。

 ロンドン駐在時、ロイヤル・フェスティバル・ホールに行った。指揮者兼ピアニストはダニエル・バレンボイムだった。彼はアルゼンチン出身のユダヤ人(現国籍はイスラエル)で小柄だが、全身から溢れるエネルギーで演奏する。ピアノを弾きながら指揮をするいわゆる弾き振りを披露してくれた。演奏を楽しんだ後、CDのサイン会があった。2枚買って、サインをもらい、握手をした。驚くほど柔らかい手で、パールマンを思い出した。

 コロナ騒ぎで、最近はソーシャルディスタンスを守れと握手もままならない。しかし新型コロナウィルスの脅威は、まだまだ続きそうだ。人間が自由に握手し、抱き合える日はいつ来るだろうか。早く来るよう祈りたい。
 この頃音楽家たちとの温かい握手を懐かしく思い出す。

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