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「800字文学館」

下町人情?

三 春

 近所の寿司屋のおやじさんはバンクーバーで握っていたことが唯一の自慢だ。風貌はアンパンマン。カナダ帰りなんて微塵も感じられない。
 明朗会計とまともなネタで回転寿司やチェーン店が幅を利かせるご時世に、昔ながらの寿司屋は生き残りが難しい。だが、この辺りは大田市場に近いおかげか、ネタ揃えと鮮度の良さで健闘している。
 今日は久しぶりのバンクーバーだ。下町の割には少々高いのが難点だが、地元の活性化に一肌脱ごうと、いつも通り息子たちとカウンターに横並び。
 座敷では私たちの母校でもある小学校の現役父兄と教師たちとがなにやら懇談中。ガハハハと哄笑がとどろく、やれやれ嘆かわしい。
 テーブルには幼児を連れた若夫婦。幼児のくせに「アワビはもっとコリコリしてなきゃ。ウニはやっぱり羽立が一番だよね」と可愛げがない。思わず親を盗み見れば、我が子のグルメぶりにご満悦の様子。あら、お父さんはカッパ巻き?
 奥の席では目つきの悪い八百屋の主人がチビリチビリやっている。この八百屋は昔、私の母親を万引きと間違えて追いかけてきた。
 私たちの隣には老婆が一人、年に似合わぬ旺盛な食欲でさっきから高級ネタばかりを次々と注文している。お銚子の差替えも何本目だろうか。ずいぶんと粗末な身なりだけど、もしや食逃げでは、まさかいまどき……、こっちだってヨレヨレのGパンだ、ご近所だから普段着なんでしょ、お互い様よ。それにしてもよく食べるなぁ、私たちより先に居たのに、もう帰ろうかという時にもまだ食べている。

 さてその数日後、来客があってバンクーバーから出前をとった。「この前のお婆さん沢山食べてたねぇ」と水を向けたら「いやぁ、結局は食逃げだったんすよ。まぁ年寄りだから警察に突き出すのはやめといたけどね。怪しいとは思ったけど客商売だから最後まで言えないんですよ」。いいところあるわ、下町の人情だねぇ。

 待てよ? あの日はいつもよりずっと高かった……食逃げ分を上乗せ?

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