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「800字文学館」

散歩の途中で

内藤 真理子

「すみません、神楽坂まで歩いていきたいのですがどう行けばいいでしょうか」
 住宅街で、五十くらいの顔色の悪い髪の長い女性に呼び止められた。
ここからだと、電車で行っても乗り換えをしながら一時間近くかかる筈だ。
「歩いて行かれるのですか」
「ええ、どうしても神楽坂に行かなくてはならないのです」
 少し前から降り出した雨がもう傘を打つほどになっている。それに、ギャザースカートにパンプス姿。ジョギングってわけでもなさそうだ。
「歩いていけるような距離ではないですよ」
「実は私は北海道から出張で東京に出て来たのですが、知人の車でここまで来たところで、下ろされてしまいました。旅行鞄もバックも車に置きっぱなしで、知人は私を下ろすとそのまま行ってしまったのです。私はこれから、神楽坂に住んでいる友人の所まで行こうと思うのですが」
 その女性はだんだん興奮したように早口になり畳み込むように言葉を継いだ。
「私は、札幌に住んでいる針場早苗と申します。決して怪しいものではありません。どうか教えてください」
 散歩の途中で、夫は一メートルも先を歩き、ちらっと振り返っていらいらした様子で立ち止まった。私は早く行かなければと気が急いた。
「この雨の中を、神楽坂まで歩くのは無理ですよ」
「今日は会社がお休みで神楽坂の友人以外頼る人はいないのです。そこまで行けば何とかなります」
 夫は気が短いのだ、今にも怒鳴り声が聞こえそうではらはらする。
 私達は年金暮らし。日々二人で過ごしている。今朝も新聞のチラシを見ると、ヨーグルト一パックが普段より三十円も安いので、二駅も離れたスーパーに散歩がてら行ったのである。
「こんなことは、初めてなのです。本当に困っているのです」
 針場早苗と名乗る人は、ちゃんと傘をさしている。布の手提げ袋も下げている。どう考えても嘘をついている。
 だが目の前で熱演をふるっている女性が、だんだん気の毒になって来た。
 夫が今にも怒鳴りながら引き返してきそうで、私は思わずお財布の中から千円札を一枚出すと
「ここをまっすぐ行くと駅に着きますから、渋谷行の電車に乗って渋谷で乗り換えてください」
「ええ~っ、貸して下さるのですか、何てご親切な」傘を脇に挟んで、両手でハンカチを持って泣くふりをしだした。
「困った時はお互い様ですよ」あわてて夫に追いつこうとする私に、
「なんていい人なんでしょう、お借りします。ご住所を教えてください」
「いいですよ、返さなくても」

 夫に追いついて、状況を話し、
「千円あげちゃった」と言うと、
「俺達は二時間もかけて三十円安いヨーグルトを買いに行ったんだよ。それに、神楽坂まで千円もかからないじゃないか、随分気前がいいんだね」
「だって、よほど困っているのだろうなって、思っちゃったのよ。私相手にあんな演技して……」
「何言っているんだい。そういう商売なんだよ。道端でお前みたいな馬鹿を相手に、五分やそこいらで千円も稼いだんだろう」
 言われてみれば確かにそうだ。
 ちょっと散歩に出ただけのはずだったのに……。

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