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「800字文学館」

体育館の音楽会

安藤 晃二

 年末に、ベートーヴェンの第九を聴く。西武沿線の、産業も多い自治体の甚だ裕福な町の市民オーケストラがあり、そこで第一バイオリン奏者をしている家内の友人から毎年の招待に応じてこの二十年間、欠かさずに出かけている。その町には、ご多分に漏れずバブル時代に建設されたすばらしいコンサートホールがあり、行政のサポートよろしく入場料無料の演奏会に市民が押しかけ、良い席を確保しようと長蛇の列ができる。見渡せば、聴衆の年齢層は八割方が老人世代、クラシック音楽を愛好するのは、いま洋の東西を問わず、老青年達だ。

 今年の演奏会には思いがけない変化があった。いつものホールが大工事のため、会場が市立体育館に変更となった。暖かいコート無しには震えることになるかと思いつつ入場して見て、嬉しくも裏切られた。その巨大な、バスケット三試合同時受け入れが可能な施設は、断熱構造、暖房完備、如何に自分が世の事情に疎いかを思い知らされる。
 それはともかく、この巨大なスペース内の距離が凄い。観客席の一面が客席となり、四十メートルも離れた処にオーケストラと合唱が、ほんの一握りの塊に見える。しかも限りなく高い天井、恐らく演奏者、とりわけ弦楽器奏者にとり、劣悪な演奏環境である。音楽ホールの場合、演奏者間、どの楽器の音も良く聞こえ、自らの音程、強弱を溶け込ませながらアンサンブルが成立する。体育館では、オケの音は何処かに消えてしまうが如きだ。自分の弾く音のみ聞こえ、言わばソロ奏者の体で、合奏感覚から締め出され、ひたすら指揮棒と、管楽器の音を頼りに孤軍奮闘した辛い経験が私にはある。

 演奏が始まる。やんぬるかな、と同情感いっぱいの気が気でない思いで拝聴する。音は何処へも飛んで行かなかった。しっかりしたオーケストラと合唱団による素晴らしい音楽が、遥か彼方の空間でまとまって客席に到達する。団員各人の演奏の技量がオケ全体の上手となって立派な音楽となった。これまでの中で最も良い「第九」であった。

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