作品の閲覧

「800字文学館」

母の登山

中村 晃也

 年末の大掃除をしていると、「江戸煎餅」と書かれた缶に入った五万分の一の地図が四十枚ほど出てきた。同時に大学時代に旅行した北海道の各地の絵葉書があった。若い時に整理したまま物置の片隅に置き忘れられたものだ。それらには登山時に宿泊した山小屋のスタンプが押してある。

 絵葉書の中に見たこともない六枚一組の槍ヶ岳の白黒写真があった。縦十一センチ、横八センチの小さなサイズである。一緒に出てきた白樺の樹皮が貼ってある絵葉書の宛先記載面には右側から「郵便はかき」と印刷されている。相当古いもので今となっては貴重品だ。

 これらには槍沢小屋と一ノ俣小屋のスタンプが押してあり、昭和八年七月二十日の日付けがある。これは私の生まれる以前の日付けである。
 槍沢小屋には一度泊まったことがあるが、後者の一の俣小屋は存在すら知らなかった。ネットでこの山小屋を調べると、昭和八年にヨーロッパアルプスの山小屋を模した瀟洒な丸太造りの小屋が、槍沢小屋と常念小屋の分岐点に完成したが、その小屋は昭和十八年に焼失したとある。

 前述の山の地図に私の母の持ち物が混在していたらしいのだ。私の母は府立第三高女を昭和九年に卒業し、十年に結婚、十一年に私を出産している。
 彼女は昭和八年十七歳の時にアルプスに登っていたことになる。当時は日本アルプスとは呼んでも北アルプスとは呼ばれていなかった。
 女学生の一団が登山するのは当時としては珍しかったようで、どこかの新聞に載ったとか、登山の前に神社でお祓いをしたとか聞いたことがある。山好きの教師に引率されてセーラー服姿の登山隊が徳本峠を超えて上高地に入り、梓川右岸を遡上して、できたばかりの一ノ俣小屋に宿泊し、常念岳、大天井岳を経て中房温泉に下りたらしい。

 そんな母に勧められて私が初めてアルプス白馬岳に登ったのは中学二年の夏であった。山に登ると聞いて祖父母が心配して「必ず帰ってこいよ」と出がけに声を掛けられたことを覚えている。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧