作品の閲覧

「800字文学館」

カブちゃんとの一夏

志村 良知

 8月初めのある晴れた朝、ベランダの床にカブトムシがいた。
 大きな漆黒のオスで、摘み上げると元気にもがく。ネットで調べたカブトムシ体長測定法「自然体の角の先から畳んだ翅の先までの投影」で8センチを超えている。これは養殖ものにしかいない超巨大クラスとある。近隣階の飼いカブトが脱出したものか。ともあれ、空中に放り出さずにカブちゃんと名付けて保護することにした。
 と言っても放し飼いである。ベランダには朝顔のプランターがある。表面には乾燥防止の木材チップが敷き詰めてあるのでカブちゃんには絶好の環境であろう。エサは定番のスイカ、ブドウ、バナナ。好物はスイカで見つけると抱え込む。バナナは食べたことが分かるので与え甲斐がある。日中は、チップに潜ってじっとしていることが多い。
 朝顔の水やり時もカブちゃんには斟酌しない。2日おきに散水栓で一気に撒く。水滴が掛かった瞬間、カブちゃんは手近の蔓か支柱をつかみ、とにかく約1.5メートルの最上部までよじ登る。野生の森で雨にあったら溺死しないために高い所に逃げろとインプットされているのであろう。カブトムシはこの為に水滴と重力のセンサーを持っているようだ。新発見である。その避難行動は避難指示が出たときの人間も見習いたいくらい潔良く素早い。

 お盆で帰省。近所に住む姉の家のシマトネリコに集まるカブトムシの中から、とびきり美人のカブ子を連れ帰り、カブちゃんに見合わせた。にじり寄るカブちゃんを尻目に野生娘カブ子は盛んに動き回り、よじ登り、翅を広げて飛びたがり、がつがつ食い、三日目には出奔してしまった。

 旅行には虫かごに入れて連れて行った。行先では大皿にチップを敷いて笊をかぶせ、彼の別荘とした。避暑でカブちゃんは心身ともにリフレッシュしたらしい。帰宅して戻ったプランターで、活発に動き回り、よじ登り、翅を広げて震わせるようになった。
 8月末のある晴れた朝、カブちゃんはいなくなっていた。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧