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「800字文学館」

空気のにおい

内藤 真理子

 家の近くに幹線道路が開通した。以前この辺りの道はどこも狭く、今度開通した川沿いの道も昔は特に狭くて、大きな車で来た友人は
「土手の木で車が傷ついた」と言うほど辺鄙なところだった。
 開通した次の日、新しくできた道路沿いに住んでいる人に会ったら、
「うるさくて昨夜は眠れなかったわ、排気ガスで窓が開けられないのよ」と、さんざんに言っていた。
 我が家は道路から五軒ほど離れているので、その話を他人事のように聞いていたが暫くしたある日のこと。
 道路が朝から渋滞をしている。電車のトラブルの影響だった。
 梅雨の、空気が淀んでいるような日で、夜になって窓を閉めても家の中まで排気ガスの臭いがする。翌日から窓を開ける気がしない。閉めていてもまだ匂う。気のせいか何日経っても消えない。
 だからといって道路はもう出来て便利にもなってしまったのだからこちらが慣れるしかない。
 そう思って良く晴れた日の早朝に窓を全開した。
 やっぱり違う、これは新鮮な空気の匂いじゃない。

 十年位前の話だが高齢の母が寝たきり状態になった。夜中のおむつ限度は五時間だ。夜中に起きたくない私は深夜十二時まで起きていておむつを取り替え、爆睡をして朝五時に起きることにした。
 起きてすぐにおむつを取り替えても、時によってはあふれ出ている。そこで、朝一番に母の全身を拭いて着替えさせることが日課になった。 それが済むとやっと一日が始まる。
 そのころ書いた詩を思い出した。
『好きなもの』という題の詩の一部である。
〈好きなもの 冬の早朝の空気 新聞を取りに北側の勝手口から一歩外に出ると 無色透明無臭の冷気が押し寄せ 私にまとわる 生まれたばかりの空気を全身で深く吸い込むと 私は浄化された気になる そして一日の始まりを実感する〉
 あの頃の感傷的だった分を差し引いても、空気は周りの緑に浄化されたまま汚されることなく伝わってきていたのだろう。
 早朝に外に出て深呼吸をする習慣はもうなくなったが、あの空気が懐かしい。

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