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「800字文学館」

バッケッティのピアノ・リサイタル

川口 ひろ子

 「バッケッティのピアニズム」と題するリサイタルを聴いた。ピアノ独奏はイタリアの中堅アンドレア・バッケッティ。華奢な体を締め付ける様なタイトな黒シャツとスリムなパンツで登場、自信に満ちた表情で一礼し早速スタートだ。

 モーツァルトばかり5曲が演奏された。行楽地に繰り出すようなカジュアルな出で立ちは好みではないが演奏は飛び切り上等だ。その中で特に素晴らしかったのは、モーツァルト最晩年の1789年に作曲されたピアノ・ソナタK576。
 冒頭にホルンの音色を模した音型が提示される。「狩りに出発だ」という合図のホルンの響きで、この音型は終楽章まで様々な変奏に彩られながら展開してゆく。テンポ、拍子、調性など変奏の妙が何とも魅力に満ちていて昔から好きだった曲だ。
 束縛を嫌い贅沢な暮らしを続けた為多額の借金に苦しんだモーツァルト、この状況を打ち破るべくベルリンへの旅を企てた。プロイセン国王フリードリッヒ2世に謁見し援助を請う為だ。その折に作曲したのがこの曲だという。しかし借金、生活苦、悲惨とは全く関係のない明朗快活な曲で、そこがまた堪らなく良い。

 隣席のM子は元教師で演奏法に詳しい。「ペダルを全く使っていないでしょ。音の表情の変化をすべて指のタッチの強弱で表現していて、すごいテクニックの持ち主よ」と耳元で囁く。同感だ! 音が鳴りすぎるこの小ホールのグランドピアノを、持てる技術のすべてを使って古楽器風の抑えた響きにコントロールしている。「こんなモーツァルトを待っていた」と感激しているうちにフィナーレだ。客席はざわめき喝采の嵐が長い間続いていた。M子は彼のCDを多数購入したという。激変する現代に合う感性を養い、鑑賞に磨きをかけるのだろう。

 モーツァルトをむきになって聴き続けて、何となく行き詰りを感ずるようになって久しい。この夜のバゲッティの演奏はその気分を払拭するものであった。モヤモヤしたものが晴れて視野が一気に広がった感じがした。

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