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「800字文学館」

花脊をたずねて

塚田 實

 6月中旬京都に住む大学時代の友人と、半日ゆっくり郊外を散策することにした。友人は車を運転するのでどこでも良いと言う。5月8日放送のNHKドキュメンタリー『京都・山里の宿「花脊の春の物語」』を見たのと、白洲正子の『かくれ里』を懐かしく思い出し、花脊と決めた。

 貴船口から鞍馬寺の前を通り、鞍馬街道をひたすら北に走る。暫く行くと周りの景色が一変した。昨年9月の台風21号で大量の北山杉が倒れ、山崩れも起こしていた。想像以上の被害の大きさに心が痛んだ。

 花脊峠を越え、町から約1時間で別所地区に辿り着く。穏やかな山里が広がり、木々の緑がみずみずしい。花脊の一番奥にあたる原地地区で、川沿いの茶店に寄り、昼食の山菜定食に舌鼓をうった。女主人はかつて美山荘で働いていたという。奥で鮎を料理していたので尋ねると、その日が桂川上流地域の鮎漁解禁日だった。茶店の横には大堰川の清流が流れている。大堰川は、上桂川、保津川、桂川と名前を変え、淀川経由大阪湾に注ぎ込む。

 峰定寺(ぶじょうじ)参道の脇にかつての宿坊で、今も1日4組だけ泊まることができる摘草料理で有名な美山荘がある。瀟洒(しょうしゃ)な玄関の前を通ると、テレビで見た若女将が小走りに出てきて、軽やかに挨拶をした。「今度は是非お立ち寄りやす」

 寺の門をくぐる。大悲山峰定寺は平安末期に開かれた山岳修験道の寺だ。冬と雨天時は入山禁止だが、丁度雨が止んでいた。お寺の奥様は迷っていたが、気を付けて上がってくださいと入山を許された。急な約400段の曲がりくねった石段を登る。途中2箇所も鎖場があり、雨も少し強くなってきた。日本最古の舞台懸崖造りの本堂に着くと、雨は一層強くなった。周りの山は霞んで見えない。縁側に座り、暫く眺めていると雨が止み、霞の中から山が浮かび上がった。やがてあちこちの谷間から雲が湧き出て、水墨画のような幻想的な景色が現れた。
 幸運に感謝して、帰りは一歩一歩慎重に下った。

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