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「800字文学館」

シカゴ

都甲 昌利

 六月六日が又やってくる。この日が近づくとシカゴ駐在時代(一九七二―七七)を思い出す。
 毎年六月と十二月に「シカゴ会」が開かれるからだ。昔、シカゴ支店に派遣された実習生達が退職後に作った会にお呼びが掛かって、数年前から参加している。まだ一人だけ現役の社長がいて、彼の手配する個室で豪華な料理と気の置けない仲間たちとの会話は尽きることがなく面白い。
 一九七二年、同期が催してくれた歓送会で「ギャングの街に行くんだなァ。命が幾つあっても足りないよ」と送り出してくれたほど日本人にはテレビや映画の影響もありシカゴといえば暗黒街の帝王アル・カポネで有名な町である。
 好奇心いっぱいで向かったギャングの街は米国五大湖の一つ、ミシガン湖畔に高層近代建築が立ち並ぶ洗練された米国第二(当時)の大都市だった。風の町というニックネーム通り冬は湖からの強風が肌を刺すように冷たく、体感温度はモスクワ以下の日も多々ある位。しかし夏の晴れた日は、色とりどりの帆を上げたセーリングボートが湖上に浮かび、ビール片手にバルコニーから眺めていると、一日の疲れが吹き飛んだものだ。

 一九七四年、ウォーターゲイト事件の発覚からニクソン大統領が辞任。フォード大統領時代の七五年、昭和天皇・香淳皇后のご訪米の際、シカゴに立ち寄られヒルトンホテルで盛大なパーティーが催された。この時の日航特別機は三機使用され一機は両陛下と随員、二機目には官僚・マスコミ、三機目は空の予備機であった。
 随行して来られた元警察庁長官のご要望で私はアル・カポネの墓をご案内することになった。現在の様にパソコンやスマホの助けも借りられず、ようやく探し当てた郊外のマウント・カーメル墓地は長方形の芝生墓がズラリと並んだ普通の広い墓地で、その一角にカポネは眠っていた。頭上と思しき辺りに置かれた白い墓石には十字架と神のご加護を念願する文字が彫ってあり、元長官は感慨深げに見つめておられた。

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