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「800字文学館」

杉田久女 除名の謎

大津 隆文

谺して山ほととぎすほしいまゝ
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ
紫陽花に秋冷いたる信濃かな

 格調高いこれらの句の作者が杉田久女(一八九〇~一九四六)である。彼女は「悲劇の天才俳人」とも言われ、必ずしも幸せな生涯ではなかった。その人生最大の暗転は昭和十一年『ホトトギス』十月号に同人三名の除名が公告され、その中に久女の名前があったことだ。
 日野草城ら二名は主宰者高浜虚子の伝統的俳句に異を唱える新興俳句派であったから除名もやむを得なかった。他方、虚子を敬愛してやまない久女は唐突で理由も不明だ。実は昭和九年に久女は句集発行を企図し虚子に序文を懇請したが認められなかった経緯もある。虚子に対する思慕が濃密過ぎて疎まれ除名に至ったのであろうか。
 久女が俳句に入れ込み、虚子に傾倒したのには彼女の一本気な性格とともに夫婦関係の不和もあったのかもしれない。官吏だった父に随い沖縄、台湾で幸せな幼少期を過ごし、御茶の水高女を出て、美大西洋画科出身の男性と結婚、きっと洋々たる人生行路を夢見ていたに違いない。しかし、夫は地方(小倉)の中学校の教師に安住して絵の制作意欲も見せず、妻の芸術活動には理解がない。
「足袋つぐやノラともならず教師妻」に彼女の閉塞感が表れている。そして終戦前後の八方ふさがりの状況の中で神経に変調をきたし、昭和二十一年一月精神病院で世を去ったのは哀れというしかない。
 虚子は何故除名したのか、せめて序文くらい書いてやれなかったのか。句界の大御所は終生その胸中を語らなかったが、久女の没後『国子の手紙』との作品を著し、久女からの手紙が五年間で二三〇通に上ったことや文面を紹介しつつ「精神状態も(中略)手が付けられないようになって来た」とした。その一方で、久女の長女石昌子さんの求めに応じ、久女の句集に序文を寄せたほか碑銘まで揮毫している。
 田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』は久女像の真実に迫る素晴らしい作品であるが、虚子に対する見方は厳しい。

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