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「800字文学館」

土光敏夫の足踏み脱穀機

池田 隆

 春の好日、会社時代の仲間数人と小金井公園にある「江戸東京たてもの園」を訪れた。東京の都心や郊外にあった商店、住宅、農家などが数多く展示されている。いずれも昭和三十年代頃までは当り前に見ていた建物だが、今では記憶の奥に閉じ込められていた。懐かしさと時代変化の速さを感じながら、最後に当園が旧武蔵野郷土館から引き継いだ民俗資料を見てまわる。

 縄文土器から数十年前まで使われていた鍬や鋤までの品々が並ぶ陳列棚に、何と「石川島芝浦タービン株式会社 辰野工場製造」と大きく捺印された木製の足踏み脱穀機が有るではないか。 回転ドラムの径が60㎝ほどで、私の日曜大工でも作れそうな代物である。
 吾々一行はこの石川島芝浦タービン株式会社(略称IST)が母体となった東芝のタービン部門のOB連である。昭和三十七年のIST東芝合併の前後に入社し、世界有数のタービン・メーカーまで会社を育て上げた自負と喜びを共有している。皆が驚きの声を上げ、先人の辛苦に想いを馳せる。
 吾々時代の発展の基礎を築いた先輩達、彼らからは戦時中に日本最初のジェットエンジンを開発した自慢話や、終戦直後に工場に残っていたジュラルミンで鍋や釜を作った苦労話をよく聞いていた。だが当時の国内最高レベルの技術者たちが手作りのような木製の農機具まで製作していたとは知らなかった。
 当時のISTの社長は土光敏夫氏である。昭和初期には発電用蒸気タービンの国産化に、戦時中は軍用機の過給機やジェットエンジンの開発に注力したが、終戦直後はこのような品まで作り、会社と雇用の維持に努めていたのである。以後、氏はIHIや東芝の社長として辣腕を振い、「土光臨調」すなわち国鉄民営化や増税なき行政改革を断行する。
 「剛腕タービン」とか「ミスター合理化」との世評も有ったが、常に人員整理を極力嫌い、「メザシの土光」と呼ばれるほどに自らは清貧であった。

 奇しくも「江戸東京たてもの園」見学会の最後は「土光敏夫」敬慕の懐古談義となる。

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