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「800字文学館」

香る桜の花

藤原 道夫

 日常生活で桜の香りを感じるのは、桜の葉が巻いてある桜餅か道明寺を食べる時だろう。この葉は、主に西伊豆の松崎町周辺で育てられているオオシマザクラから六月頃に積まれ、塩漬けにされたもの。塩漬けすることにより香りが増すとか。香りの主成分はクマリン、この他にも香り物質が知られている。オオシマザクラは花にも香りがある。直に嗅いでみると刺激臭もあり、良い香りとはいえない。
 花に香りのある桜の品種はいくつか知られている。以前北海道の松前公園を訪ねた折に、広い桜見本園のなかで香りのよい「御座の間匂」にしばしば出会った。また「千里香」、「静」(しずか)、「上匂」、「細川匂」という香りのある桜の品種もみかけた。
 桜は通常高い所に花を付けるので、香りを直に嗅ぐ機会は少ない。東京周辺で、香る桜としてよく出会うのは「駿河台匂」だろう。多くの桜が植えてある公園や庭園でよく見かける。桜の時期にしばしば訪ねる新宿御苑内にも数本ある。なかでも日本庭園奥にある樹は、最近小道の近くまで枝が伸びてきて気付きやすい。この桜は花期が遅めで、通常四月中旬に一重の小振りで端正な白い花を咲かせる。その時期には傍らに佇み、気品ある芳香を直に楽しんできた。桜餅にお茶があれば至福の時となろう。

 ところで、染井吉野の花の香りを感じた人はどのくらいいるだろうか?
 すべての桜は香物質を含んでいる。多くは含有量が少なく、香りを出すレベルに達しない。染井吉野の花にも香りがないとされている。私は二度微かな香りを経験した。二度目に香る条件に気付いた。満開の花の下、すっきりと晴れて風のない朝9~10時頃、静かに空気の対流が起こると、それまでわずかながら貯まっていた花の香りがそっと広がる。微かな香りに感動する瞬間だった。
 年齢とともに臭覚機能が低下する。今後あのような機会に巡りあえるかどうか覚束ない。せめて春の一時期に「駿河台匂」の芳香は今後も楽しみたい。

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