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「800字文学館」

「なんだ坂、こんな坂」D51王国・中央東線

志村 良知

 韮崎駅を汽笛一声後退で発車したD51重連の旅客列車は、左に韮崎の町を見下すスイッチバック支線の土手の上で一旦停車する。そして前進発車、短汽笛を二発鳴らし、八ヶ岳の火砕流で形成された七里が岩の東斜面を、新府信号所過ぎまで5km以上緩むことなく続く1000分の25の急坂に挑む。
 私は、韮崎駅と新府信号所の中間、急坂の真っ只中の村に生まれた。家は七里が岩台地上、小学校は100mあまり下った平地にあり、毎日踏切を渡って通学した。踏切には警報器も遮断器もなく、高速で下ってくる(時刻表で上り)新府側は500mあまり見通しが利いたが、坂を登ってくる(時刻表で下り)韮崎側の見通しは50mも無かった。しかし、こちら側からくる列車は遅いのと音で分かるので危険とは思わなかった。実際この踏切での事故は聞いたことが無かったが、電化と同時に取り付け道路ごと廃止された。

 子供の頃汽車の絵というと車輪ばかり描いて笑われたが、直径が背丈より遥かに大きな動輪の汽車を間近に見たらそうとしか見えない。
 長い貨物列車はD51の三重連でやって来た。これを子供たちは「みっかま=三釜」と呼んだ。「ふたっかま」は珍しくなかったが、みっかまで、それも登坂となるとその迫力が違う。
 誰かが気が付いて「みっかまだあ」と叫ぶとみんなで踏切に急ぐ。やがて「なんだ坂、こんな坂」とみっかまが盛大に煙を吐いて喘ぎながらやってくる。子供たちが線路にわらわらと駆け寄る。機関士が手を振り回しながら怒鳴り、時に短汽笛を数発鳴らす。「写真撮られるっ」と一斉に草むらに伏せる。汽笛を鳴らされたら写真を撮られ、学校経由で警察が来る、という伝説があった。

 田んぼは小学校周囲の平地にあり、大人も子供も昼頃、坂を下っていく旅客列車を腹時計と合わせて昼飯の時間の目安にした。「お飯列車」である。
 D51重連の旅客列車は私が高校に入った昭和39年にも走っていて、それで新府から甲府まで通った。

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