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「800字文学館」

『秋山紀行』から(3) 秋田マタギ

大月和彦

 牧之が秋山郷に入って4日目に最奥の集落湯本(切明)の宿で、秋田の阿仁から来たというマタギに会う。背にクマの皮を着、毛の胴乱を前に下げ、鉄張りの大キセルでスパスパ吸う筋骨たくましく勇猛な青年だった。

 奥羽山脈と出羽丘陵に挟まれた秋田県中部の阿仁地方(北秋田市)にはマタギの集落が多かった。この阿仁マタギは、昔、山の神を助けた功により全国の山で狩猟が許されたと伝えられ、マタギの本家と尊敬されていた。彼らは冬になると各地のマタギ集落に出かけ狩猟をしていた。
 牧之はクマの生態、クマ打ち、イワナ漁など狩猟の話を聞く。彼らは上信越国境の深い山中の地理にも詳しかった。志賀高原近くの雑魚川の上流に小屋をかけ、泊まり込んで漁をする。一尺前後のイワナを獲り上州草津温泉に売りに行く。不漁の時はカモシカやクマを獲り、肉を塩漬けにして売る。小屋は二本のY字型の木を立て、桁を渡しその上に枝や草で屋根を葺き、一方の口を塞ぐだけ。コメ、味噌、塩のほか鍋と椀だけを持ち歩いた。着るものはクマやイノシシの皮だった。

 秋田マタギが秋山郷に狩猟に来て、村の女性と結婚し住み着いた話が多い。
 天保年間のこと、阿仁から来ていたマタギが大赤沢の家の婿養子となり住み着いてしまう。男には阿仁に妻子があった。何年か後、成人になった息子が訪ねて来て父親と再会する。男は「俺はこの家に残る、ばあさん孝行してくれ」といくばくかの金を渡して帰らせた。
 翌年、息子が来て母親が死んだと伝え、父親と一緒に住むようになるが、まもなく別の家の婿養子になり、熊取りの名人になったという。((『秋山物語』浅川欣一採録・編著 1977年)

 小赤沢で民宿を営んでいるYさんも秋田マタギと縁続きだった。Yさんの祖父の(明治中ごろ生まれの妹は、大赤沢に住み着いた秋田マタギの紹介で、阿仁の若者と結婚した。2人とも最近亡くなるまで小赤沢で暮らしていて、Yさんと行き来していたという。

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